kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ベキダ⇔デアル、6章

6、ベキダ>デアル:政治体制

自由意志と遺伝的性向
 神経科学や行動遺伝学が多くのことを明らかにするにつれて、「自由意志」というものが本当に存在するのかについて、多くの人々が疑問を抱きつつある。
 とはいえ、この問題は決して新しいものではない。すでに17世紀以降、近代物理学が発達するにつれて、自然科学を理解する多くの人々にとって興味深い哲学的な問題となっていた。有名なところでは、18世紀のフランスの数学者・物理学者であったラプラスが「ラプラスの悪魔」について考えた。
 悪魔は、すべての物質の現在の位置と運動を把握しつくしている。古典力学には不確実性は存在しないため、人間を構成する物質を含めて、すべての物質の未来の状況は、現在の位置と運動量から厳密に計算できる。
 ちょうど、ビリヤードの球が次々と当たりながらも、現時点でのすべての球の位置と運動量から、正確に将来の球の位置が計算できるようなものである。古典力学では、世界の運命は永遠の将来にわたって完全に確定していると考えられた。
 これは極端な物理学的な思考実験であったが、その後20世紀に入り、量子力学が発達すると、こういった物理的な決定論は、確率的なものでしかありえないという考えに変わった。しかし、もともと人間のような非常に巨大なシステムは、古典力学的な原子レベル、あるいはさらに素粒子レベルからのシュミレーションをすることができないため、その行動を物理学のレベルで決定することは不可能だ。
 今後どれだけコンピューターが発展したとしても、ハイゼンベルク不完全性定理に表れているように、物質の位置や状態の計測自体が困難であり、また原理的にも不能だ。地球外のエネルギーによっても地球の物質が大きな影響を受けていることからすれば、物理学のレベルからの動物行動の演繹は、どこまで行っても実用的にはならないように思われる。
 こういった話は、「自由意志論」との関係で論じるには興味深いのだが、あまり現実的な意味を持たない。こういった物理学的な法則よりも、生物の行動の予測については、ヒト以外の多様な生物を含めて行動遺伝学の方がはるかに役に立ちそうだ。
 古典的な動物行動の研究には、フォン・フリッシュによる、遺伝的なミツバチのコミュニケーションがある。昆虫は行動の学習ということをほとんど行わないが、例えばミツバチの場合、花のある場所への方向や距離の伝達方法までもが遺伝的に組み込まれている。
 人間の場合、はるかに高い学習能力を持つことは明らかだが、それにも生まれつきの違いがある。このことは、これまでの行動遺伝学の研究から明らかだ。個人の遺伝子配列や、あるいはその非常に粗い代理変数としての親の生活からは、糖尿病やガンなどのリスクを含めて、個人の人格や生活などが確率的に予測できる。
 多くの人々はこの点について、病気などはともかく、行動については完全に環境的なものによって決定されるという、環境主義的な見方をするようだ。確かに、人間の環境は、幼少時には親や保護者によって与えられる受動的(passive)なものだ。
 しかし、少年期になると、次第に自分の興味や才能に応じて周囲の人間の反応も引き出すようになる。これは反応的(reactive)な行動パターンと呼ばれる。例えば、少年野球でもピアノでも、やる気と才能のある子供の方が、指導者からも熱心な技術指導や励ましを受けるようになる。
 思春期を過ぎると、人間は独立して自分のやりたいことをするようになる。これは人間の行動が主体的(active)な段階に入ることを示している。特に自立して説渇するようになると、概して人は自分が興味があることしかしなくなる。
 すべての形質や行動について言えることだが、おそらくは現代社会という自由な環境に生きる人間には、各人に生まれつきの行動の最適値、あるいは最頻値というものがある。それを教育的、あるいは職業的、その他の何らかの理由から異なったものにするのは、大きな精神的努力が伴う。以下に示したグラフが、そのことを示している。
 双子の身長や体重は、別々に育てられた場合でも驚くほどに一致している。このことからは、我々の行動や形質には、基本的な最頻値のようなものがあって、その状態がおそらく一番ありそうなものだ。この値から離れたものを実現するためには、環境要因の大きな違いや、あるいは環境の違いに応じた本人の意識的な努力などの、特別な要素が必要になる。

























 もちろん、現実はこれほどに単純なものではないだろうが、それでもこのグラフは有用な示唆をする。例えば、好きなものを自由に食べてコレステロール値が高くなり、動脈硬化や、あるいは糖尿病などにかかる人は数多くいる。そういう人でも、意識的に食事の質を変えるとか、あるいは運動をしたりするというように、つらいこと=精神的な負荷を覚悟すれば、病気を避けることができる。
 同じように、日本人男性の平均身長は約一七二センチほどである。これはここ二〇年ほど変化していないことからは、現代社会における遺伝的な発現としてはこのあたりが最頻値だということなる。かつて、江戸時代の日本人の平均は一六〇センチに届いていないが、これは栄養状態が悪かったからだ。また現在では、遺伝子を組み替えた大腸菌によって作り出されるヒト成長ホルモン(HGH)を投与すれば、身長が高くすることもできる。こういった「環境」要因の変化を意図的に作り出せば、身長を変えることも可能だ。
 あるいは生まれつき攻撃性が強く、順法意識の低い個人がいたとするなら、最頻値では何度かの暴力犯罪を犯すことが考えれよう。しかしそういった個人であっても、周囲の人々の励ましや保護、それに応じた自分の意志や訓練などによって、順法的な一生を送ることは、相当の割合で可能だろう。
 これまでに多くの哲学者や科学者が「自由意志」の存否について語ってきたが、ここでの私の説明は、この深い哲学的な問題には答えていない。人間には自由意志があるという前提で、自分の遺伝的な性向に対処、あるいはそれを増強することができるという、常識的で凡庸なものだ。
 個人には遺伝的に最も自然な行動や思考があるが、それは多様な外部環境要因によってある程度変化しえる。そしてその要因が多ければ多いほど、強いものであればあるほど、遺伝的な自然状態から離れることになる。こうした、ほとんど自明の事実が、私の主張しているものだ。
 ここで先回りして、この章の結論を言っておこう。
 人間にとって自然な政治制度は、おそらく王制や独裁制であって、民主主義や精神の自由は、努力して意識的にその価値を称揚しなければ、安定的に実現しないものである。啓蒙主義を経て、人類はすでにこれに成功した。
 そして、政治への過剰な期待もまた、自然な人間の心性である。しかし、、政治活動の危険性と限界が、理性によってもっと認識されるべきである。政治活動はかつての独裁政治と同じように、低減されねばならない。これは全く実現していない人類の今後の課題である。
 以下に、もっと詳しく説明しよう。


啓蒙思想による保守的王制の批判
 いろいろと異なった歴史観はあるのだろうが、ここで論じたい世界史的な事実は、王制や貴族制といった政治体制の変化と、それと並行的に起こった産業革命による商品の生産過程の変化の2点である。これらは、相互に関連して、相互に強めあってきた。
 まず、王制から共和制への政治体制の変化を引き起こした啓蒙思想について考えてみよう。政治的な啓蒙思想ではホッブズやロック、モンテスキューなどが有名だが、彼らに共通するのは、既存の権威への盲従を批判し、国家の存在意義について理性的に議論したという点だ。
 それ以前の議論では、ボシュエの王権神授説などのように、王権と宗教を結びつけることによって、絶対王制を宗教的に肯定するような思考法が一般的であった。例えば、エジプトでもファラオは太陽神アモン・ラーの生まれ変わりであるし、あるいは古代メソポタミアでも神が王に政治を信託したことになっていた。
 また中国の皇帝は天命を受けた支配者であった。日本でも、戦前までは天皇が現人神であり、その統治の根拠は古事記という神話による極めて宗教的なものだった。現在のタイやカンボジアの王室もまた、現地の土着信仰と一体化している。
 これらは典型的に、現状肯定的な保守思想だといえるだろう。啓蒙主義者たちの論理は、それまでの世界に普遍的に存在していた宗教と王権の安直で感覚的な結びつきを、理性に問いかけることで否定することから始まった。
 例えば、ホッブズは「王という絶対権力者のいない原始的な状態に人間が生きていた」と想像する。その場合、それは万人の万人に対する闘争状態に陥ってしまうため、それを回避する必要が生じる。結果的にホッブズは、彼以前の思想家たちと同じように国家の絶対性を肯定しているが、重要なのは王制を肯定するに至るまでに、盲信に代わって論理が存在することだ。
 そもそも、王権が絶対であるとか、神が王権を肯定しているとか、そういった命題は論理や理性を超えたものだ。啓蒙主義とは理性に従って、それまで無批判であったものを何とか論理的に説明しよう、あるいは説明できないものを否定しようとする試みだった。
 ホッブズの論理を受けて、ロックは、権力が人民の信託に反する場合は革命によって否定されることもあるべきだとした。革命権、あるいは抵抗権の肯定である。さらにモンテスキューは、権力はあまりにも暴走する危険が大きいため、一つの個人や機関が専有べきではないとした。これが、権力分立の原則だ。
 彼らの議論は、理性に基づいたものであって、超自然的、あるいは宗教的な感覚には依存していない。これが、「啓蒙」、つまり理性の光で迷妄の闇を照らす(enlightenment)ということの意味である。
 啓蒙思想以前の世界では、王制をとっていない国はほとんどなかった。啓蒙思想家の時代には、王制はともかくも機能するものであることが証明されていた。それに比べて、共和政の方はほとんど成功するかどうかもわからない夢想的な政治制度だった。古代ギリシアやローマでの政治が参考になった程度である。
 保守的な精神の持ち主たちは、この時代には当然に王制を支持し続けたはずである。当時、彼らは言い続けたに違いない。「共和制というのは、理念としては理解できないこともないが、現実的ではないね。」
 総じて言えば、近代民主制は絶対王制に比べて「進歩した」制度であり、進歩主義を信じる平等主義者が押し進めてきた社会改革の結果である。つまり左翼革新勢力は18世紀以降、一進一退を経て来てはいるものの、結局のところ、彼らの目指す社会改革をどんどん実現してきた。
 第二次世界大戦では、ナチスファシスト党、あるいは日本軍部の独裁が起こった。そういった絶対的な独裁政治が完全に否定されている今となっては、極右民族主義的な人々でさえも、民主主義政治体制を否定することはほとんどない。
 有史以来の人間社会のほとんどが王制をとっていたことを考えれば、これはたいへんな驚きであり、ある種の進歩である。また、王制や貴族制が素晴らしい政治制度であり、そこに戻るべきだと主張する思想家がいなくなったというのも実に興味深い。人間の平等を志向するベキダは、少なくとも政治体制の歴史においてはその理念を実現してきた。この意味で、ベキダがデアルを作り出してきたのだ。
 

産業革命による科学と自由の価値の上昇
 民主制が王制を圧倒したのは歴史的な事実だとしても、いったい民主主義には何らかの王制その他の独裁政治を超える利点が内在しているのだろうか?ここで私が問題にしているのは、水掛け論的な「倫理的な望ましさ」を超えた、人々の物質的な福祉を改善する、あるいは人々の精神をより満足させ、それを否定すようとする対外勢力を圧倒する戦力という物質的な繁栄である。
 独裁制は、それに不服のある社会主義者に対しては直接的な政治的不利益を課すだろうが、保守的で秩序維持的な人々は独裁者の臣下として、あるいは独裁政党の組織内で頭角を現すことを考えるだろう。そして、むしろそこから利益を受ける。
 日本史においても、平安時代藤原氏やあるいは鎌倉幕府の将軍であった源氏、執権の北条氏、あるいは足利家や徳川家のように、天皇の臣下の形をとりながらも、実質的に政治権力を奪うことは珍しくない。
 社会が内戦状態にはないという意味で安定しているということは、そういった状態が仮に平等・公正な理想状態にはないとしても、人間の生活環境としては重要なことだ。平和のうちに生きることができなければ、どういった生産活動を維持することも難しくなる。これは現在でもアフガニスタンタリバンの復活や、ダルフール紛争など多くの国で内戦が散発しており、そこでの人々の生活の困窮を見れば疑いない。
 しかし、王制や独裁制には重要な問題点がある。それは、王制、特に絶対王制はほとんどの場合、体制への批判につながるようなすべての思想の発表を禁止してしまうことだ。同時に科学的な真理の発見につながるような研究活動をも禁圧し、その結果として科学技術の進歩が遅れてしまう。
 こういった言論活動の制限は、小国が分立していたヨーロッパ諸国ではせいぜいが地動説の禁止などであったかもしれない。例えば、ガリレオの『天文対話』は禁書になったが、それでもオランダでは『新科学対話』を出版できた。しかし、統一王朝が長い間支配を続けることが多かった中国でははるかに深刻であった。
 中国では15世紀の明朝の時代には、ほとんど産業革命の基盤となるレベルの技術的な知見があったと考えられている。しかし、明清以降の朝廷は思想統制をおこない、自然科学の発達につながるような科学的な実験も、さらにはそれを公表し、意見を交換するような行為をも全般的を禁止した。
 なぜ、自然科学までも禁止までするような必要があったのだろうか? 私にはその理由ははっきりしないが、結局のところ、「現状の知識や政治制度は十分なものであり、新しい試みなど必要ではない。必要ないだけでなく、専制秩序の維持という観点からは有害になる可能性がある」と朝廷と官僚たちが考えたからだろう。
 つまり、皇帝本人、あるいはそれに群がる官僚組織からの命令が、保守的な地方政治組織と相まって、科学的な好奇心を現状維持に不必要な「余計なこと」だと考えたのだ。また、意見や知識の公表の前提となる表現の自由などは、体制転覆の扇動行為への警戒感から完全に否定された。
 よく知られているように、中国では唐の時代から、官僚選抜のために科挙制度が行われている。だが、その内容はといえば、孔孟の教えである四書五経をいかに完全に暗記し、うまく形式主義に則って運用記述できるかという、いまとなっては信じられないほどにバカげたものだ。科挙のためだけに、八股文という特別な形態の文体があったほどなのだ。
 それは、保守主義が無意味な形式主義の極致に達したものだ。孔孟の教えやその伝統を疑わずに暗記し、運用できるような、無批判で特殊な知性の持ち主が、一族郎党ともども栄達を極めるという制度だったのだ。
 結果、東洋では自然科学も、それを支える論理学・数学もついに発展しなかった。その反面、ヨーロッパでは多様な物質についての化学的な知見の蓄積は、次第に冶金術の高度化を生んだ。それらの技術の伝播や、あるいは実験結果の公表によって、さらなる知的な探究が育まれた。それが最終的には、大規模な蒸気機関を可能にするような鉄の精錬技術や機械工学、エネルギーについての気体の状態方程式にまでもつながっていった。
 世界史の教科書での産業革命の項を読むと、ほとんど無機質な筆致で、紡績機や自動織機の発達、蒸気機関の発達などとして記述されている。それはそれで事実としては正しいのだろうが、重要なのはそれを可能にした背景的な自然科学の知識である。
 それらはルネサンス以降、飛躍的に進歩しており、17世紀以降はニュートン微積分学の天文学への応用などに代表されるような、物理数学の急速な進歩があった。その間、東洋人は中国でも、朝鮮半島でも、日本でも同じように、ほとんどの官僚や市井の学者が、完全に無意味な朱子学陽明学などの儒教論争、宗教論争に明け暮れている。こういった状態については、明治以前にも福沢諭吉などの蘭学者が嘆いている。
 なぜヨーロッパで最初に産業革命や資本主義が発達したのか? その古典的説明は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』が良く知られている。ウェーバーによると、プロテスタンティズムのもつ現世における勤勉精神こそが資本主義的な成功を生み出したのだという。
 これは間違いなく、十九世紀から現在に至るまで多くの読者を得てきた著作であり、大いに評価されてきた説明だ。しかし、現在の私は、これは社会学者の陥りがちな大いなる勘違いだったと考えている。
 それは単に、二十世紀以降の日本、韓国、台湾、シンガポール、中国大陸、などの経済的な躍進が顕著だという経験的な理由からだけではない。資本主義の発達というのは、キリスト教という特殊な宗教に依存するものというよりは、もっと権威主義保守主義、あるいは知的な好奇心などの人間の精神性に関連しているものなのだ。
 ヨーロッパ社会の圧倒的な物質的成功を目にするまでは、アジア人の権威主義的な傾向が科学と資本主義の発達を阻害していた、というのが私見である。例えば、江戸時代の経済はそれなりに商業資本主義的ではあった。けれども、産業革命の基礎となる科学的、技術的な知識の探求が、中国思想の影響からか、完全に否定されていた。科学知識は、商業や個人的な技巧などの発達以上には、到底、継続的な発展をすることはできない。
 科学の発達やそれに随伴した実利的な現象としての産業革命は、人間の知的探求というものの持つ価値を一変させた。それ以前の研究者とは、錬金術師などのように、何か役にも立たないことを実験したり、調べたり、あるいは古代ギリシャ哲学者や儒学者のように無意味な思索をしているという、奇人変人的なイメージがあっただろう。
 これは、たとえば、古代ギリシア哲学の万物の根源論争や、ユークリッド幾何学などを考えてもらえればわかりやすい。あるいは、中国の春秋戦国時代諸子百家について考えよう。それらは確かに世界や人間の本質について何事かを議論してはいるのだが、実利的な現実主義者にとってはまったく無意味だった。しかし近代の科学は、産業革命となって結実した。ここで自然科学的な知識は、我々の生産活動を拡張することのできる実利的な有益性をもつことが、誰に眼にもはっきりと認識されたのである。
 科学的な知識は、その性質からして、その進歩や内容を、政治的にコントロールできるものではない。確かに絶対王制や独裁政治をとりながら、科学を進行させることはまったく不可能ではないかもしれない。しかし知識の中には、王制に否定的、あるいは都合のよくないような知識もある。実際に例えば、ダーウィンによる進化論はキリスト教、さらにはその権威によって支えられてきた王権の意義を大幅に減殺する理論であった。
 これに対して、もともと市民の自由を大幅に許す民主政治であれば、少なくとも自由な学術研究を制限する必然性は少ない。これが、科学は民主制における方がより急速に進歩する理由だ。結果としてその社会は物質的にも、より繁栄することになる。
 また、科学的知識の存在場所についても、それは中央集権的なものではありえない。科学の膨大な知識の維持には、必ず科学者集団が必要であり、科学的発想や発見の散発的な性格によって、それらは中央集権的というよりは、分散的にならざるを得ないからだ。
 前述したように、ソヴィエトのルイセンコ学説のもたらしたロシアの生物学への破壊的な影響を見ても、中央集権的な科学の統制の失敗は明らかだ。そもそも科学とは、様々な個人が多様な仮説を提出し、それを証拠と突き合わせて検証することによって批判発展する知的な営みである。実験や照合をする前から政治的な理由で仮説を肯定・否定するのでは、知識は後退することはあっても、増加することは期待できそうもない。
 ソヴィエトしかり、中国しかりで、つまり専制政治と科学の発展とは基本的に相性が良くない。社会主義の国家において科学が全般に振るわない最も大きな理由は、社会主義では、政治的に決定された社会目標が、科学の目標になっていることがほとんどで、それに向けての研究態度が称揚され、政治に関連した研究費ばかりが肯定されるということにある。 
 この点は、科学哲学者であるカール・ポパーが繰り返して指摘している。科学とは、そういった政治的に決定することが可能な営為ではなくて、むしろ中央集権的な試みには馴染まない個人的な知的興味に基礎をおいているのだ。
 科学的知識は、科学的な信念とともに、学会などに集う科学者一人ひとりの心の中の情報として、分権的に蓄えられている。これは、中世以前の社会において、重要な知識が教会や王室を中心として独占されていた時代との決定的な違いである。
 民主主義は、科学的な活動をあまり圧迫しないため、絶対王制の国よりも科学は発達し、その成果を大いに利用することで物質的に豊かになり得る。だからこそ20世紀以降、絶対王制ではなく、民主主義の方がはるかに大きな物質的な福利を人々にもたらしてきたのだ。
 王制や独裁制と民主制にはこういった実利的な違いが存在する。そのため、20世紀初頭にはほとんどの世界の諸国が王制であったのに対し、21世紀の政界諸国のほとんどが民主制に移行している。体制の変革は、科学的知識の有用性の世界的な浸透と相まって、科学的知識を作り出す精神的な自由の承認にもつながった。
 精神活動の自由は、知識の増大と伝播の高速化を促す。その結果、経済の生産性をも上げることにつながり、結局は全員が豊かになるというコンセンサスが、世界的な規模で完成したのだ。
 結局、科学の発展においては、保守的な体制維持派は、知的探求心に富む革新派に比べると、人類に対する長期的な貢献度は低かったと結論されるだろう。この結論は、保守派には不愉快かもしれないが、見過ごせない重要な要素を含んでいる。
 古典ギリシア時代、アポロニウスは楕円曲線の性質について研究したが、彼の研究は、同時代にはまったく何の役にも立っていない。しかし、それから二千年後、天体の運行についてのケプラーの法則の解明に、楕円曲線や双対曲線の理論は大いに役に立った。
 あるいは、内燃機関を実用化させたダイムラーの試みや、空を飛ぶためのライト兄弟の努力は、即座に何かの役に立ったわけではない。それどころか、当時の主だった物理学者のほとんどが、ケルヴィン卿のように「空気よりも重いものが空中に浮かぶことはない」と信じていたのだ。しかし、役に立たないものは無意味だといって禁止するようでは、人間は江戸時代の生活水準から永遠に抜け出せなかっただろう。
 ここでも、進歩主義者のベキダは、保守主義者のベキダを完全に圧倒した。今では、生活において体制維持的な人々であっても、科学研究費への支出が無駄だとは主張しない。この意味で、新奇性の追求、新しい仮説への興味は大学などの組織を通じて、公的な制度として確立した。進歩主義者のベキダは、ここでも大学や企業などの社会制度というデアルを、数世紀という時間をかけて作り出した。
 とここまで私は、ベキダが歴史的に作り出した人間社会のデアルを高く評価してきた。これに対して、以下に述べる小さな政府に向けての私個人のベキダは、現代社会ではますますデアルから遠のいている。それは事実だが、私は悲観はしていない。前述したように、民主主義思想も、最初は哲学者の妄想からスタートしたのだからだ。


ゼロサム・ゲームからプラスサム・ゲームへ
 毎日を忙しく生きている現代人はあまり意識することはないのだろうが、産業革命は人間の生活の質を激変させた。それまでの人口の増大というのは比較的にゆっくりとしたもので、時に飢饉が起こったり、疫病が蔓延したりして、局所的には増減しているが、全体としては微増してきた。
 これまでに多くの学者が過去の人口を推定しているが、このことは人口学者であるマッケブディとジョーンズの著作にある歴史的人口推計や、近代から戦後・将来の推計についての国連公式統計をみても明らかだ。
 近代以前の世界では、二人の夫婦から二人の子供が生き延びて、子供を残せれば幸運だった。こういった状況では、誰かの子孫が死んでくれれば、自分の子孫が生き延びる可能性は高まる。疫病は確かに第一の死亡原因ではあったが、疫病がなくても、限られた土地からとれる食べ物には限界がある。疫病は直接的な死因ではあっても、それは栄養失調からの免疫力の低下の産物であることが多い。
 こういった世界こそが戦国時代の日本であり、近代以前のヨーロッパの王国が群雄割拠した状況である。そこでは基本的に、自分が繁栄するためには、他の誰かを滅ぼしてその地を奪うしかない。自分の利益と他人の利益を足し合わせるとゼロになる。かつての社会状況はゼロサム・ゲームだった。
 文字もほとんど普及しておらず、金属を精錬する知識もない、紀元前の世界を想像してみよう。農耕と文字の普及する前である、紀元前一万年の世界人口は四〇〇万人程度だったと推定されている。それが紀元1年には3億人程度にまで増えているのだ。この間の1万年の間、年間平均にして0.2%程度の増加である。
 これをヒトの一世代が25年だとすると、一組の夫婦が平均して2.05人の子供を残したことになる。これは、つまり人の一生のうちには、仲間の数が目に見えて増えるということはほとんど不可能だった。
 1798年の時点においてさえ、経済学者トーマス・マルサスは、人口は幾何級数的(指数関数的)に増えるのに対して、食料はせいぜい算術級数的(一次関数的)にしか増やせないため、世界人口が貧困に苦しむのは必然的だとした。これは、当時の理論としては、大変に説得的だと考えられた。その後の歴史的な経験を待たなければ、多くの知識人に陰鬱な未来という思想的な影響を与えたのも無理からぬことだ。
 ゼロサム・ゲーム状況では、他国人と戦ってその地を奪うという行動は必然的になる。これを実行するためにも、防御するためにも愛国的なメンタリティが必要になるだろう。また古代ギリシャやローマでおこったような、貧富の格差の蔓延は共同体意識を低下させ、戦争にも不利になってしまう。
 しかし産業革命以降、先進国の人口は年率にして1%以上増えることが普通になった。これは、一組の夫婦に3人近くの子供が育ったということである。実際、20世紀の一〇〇年間で世界人口は16億人から六〇億人にまで約4倍に増えた。これは年間の人口増加率にして約1.4%になる。一世代を30年とすると、1組の夫婦からおよそ3人の子供が育ったことを意味している。
 現代の世界人口が、たとえば年率1%で増大し続けても、バイオテクノロジーの発達や各種のロボットの実用化、海洋への移住、さらには宇宙への移民などによる経済的な成長はそれ以上であり続けるだろう。私は、今後も人口問題から貧困が生じるということはないと考えているが、同時に、科学的、芸術的な知識がより重要になる未来の世界では現在よりもはるかに所得格差は拡大するとも思っている。
 科学の発展は、相乗効果を持っている点で、社会状況はすでにゼロサム・ゲーム状況ではなくなった。固体物理量子力学の進歩はより効率的なCPUの生産を可能にし、その増加したコンピューティング・パワーはさらなるシュミレーションを可能にして、物理学の進歩を加速する。その他のバイオテクノロジーから量子コンピューター、ナノテクノロジーなど多くの分野の発見の成果が結合することで、ますます急速な科学の発展と、社会的に利用可能な生産物の増大が期待できる。
 環境主義的な懸念を別にすれば、インドやアフリカの人口爆発を恐れる必要はない。2010年の人類はおよそ70億人ほどだが、技術的に維持可能な人口は今後も上がり続けるだろう。私は特にハードなSFファンというわけでも、宇宙に興味があるというわけでもないが、この千年紀のどこかの時点で地球人が宇宙に移民するということについても、まったく疑っていない。
 ちなみに、どのみち地球は50−60億年のうちに、太陽の赤色巨星化にともなって太陽に飲み込まれてしまう。それ以前の10億年のうちには、太陽は核にある水素を使い果たし、もっと重い物質による核融合を始め、膨張し始める。その時には、現在の温暖化などとはまったく異なったレベルの地球の高温化が起こるだろう。その時、有機化合物からなる生物が生きれるとは考えられない。
 もちろん、1千年と10億年では、100万倍の違いがあるが、そのどこかの時点で、母なる地球から離れなくては、人類は滅亡してしまう。その時、人類が現代の人間とは似ても似つかないものになっているにしても、私の子孫がその時にも生きているのなら、地球とともに滅ぶなどという選択をせずに、宇宙に植民して楽しく愉快な人生を生き延びてもらいたい。
 さて、ここでの議論をまとめると、人類はゼロサム・ゲーム状況にあった産業革命以前から、プラスサム・ゲーム状況である現代型科学技術社会に突入した。現代には、相手との戦争を重視する、保守主義的・愛国主義的な精神性は有益ではなく、あるいは有害でさえある。それは破壊的な戦争活動につながりがちなだけでなく、自発的な移民や取引も制限しがちだからだ。
 同じように、左翼の持つ平等主義もまたプラスサム・ゲームの世界では重要性が減少すると考える。なぜならゼロサム・ゲームであれば、平等でないということは、弱者の子孫は次第に少なくなることを意味する。これに対して、プラスサム・ゲームでは強者ほどではないにしても、弱者であってもそれなりの自己実現や子孫の繁栄を実現できるからである。


政治への過剰な評価
 さて未来論から本題に戻ると、現代社会はプラスサム・ゲームであり、お互いの発見などの知識、あるいは生産物を交換することによって、双方がより豊かになれる。交換とはつまり国内の経済取引や、あるいは国際貿易などである。
 その豊かになる程度で十分な生活をしていける。長い人類の歴史のほとんどを占めていたような、戦争をしかけて別の集団から領土や女性を奪わなければならなかった時代とは異なったフェーズにある。このことは、いくら強調しても強調しすぎることはできない。それは根本的で重要な生活環境、あるいはゲーム状況の変化である。
 我々がどこかの異人を根絶やしにしてしか増えることができないのであれば、それは進化の過程を通じて、ヒトの心に根を生やす。そして絶対的な善だと認識されるようになり、我々の行動原理を支配する。まさにこれこそ人間のよそ者嫌いであり、集団間闘争としての戦争の歴史を作り出してきた人間の精神性だ。
 そこでは敵に勝つために、命令への順守や秩序への服従、集団利益と個人利益の同一化が重んじられる。戦場で戦う個人にとっては、敵の集団に勝利したいという集団としての利益と、自分が死傷することを避けるために逃げ出したいという個人としての利益が常に衝突する状態にある。
 これは典型的な囚人のディレンマ状況だが、戦争のような極限状況では団結の強さが勝敗を決することが多い。その状況こそが、我々の持つ崇高だと感じる愛国心を形作ってきた。
 この状況においては、多様な強制力を伴う政治活動は不可欠だ。突然どこかの集団が自分たちに戦争を仕掛けてきて、自分たちの財産を奪う可能性があるのであれば、それに対しては防衛的に戦う以外に生きる道はない。つまり、防衛のための軍隊や施設、兵器などが必要となり、そのための税を集める必要がある。
 歴史的に見れば、権力者というのは強盗団、あるいは暴力団の活動と自警団の中間のようなものだ。自分たちの縄張りを支配すると同時に、そこで生きるものからショバ代(税金)をとる。同時に、被支配民からも有能なものを採りたてることによって、権力基盤を維持・磐石化する。もちろん、暴力団とは大きな違いがある。これらの行為を、被支配民(主権者・納税者)の側が、支配者のことを総じて心理的に肯定している点においてだ。
 自分のサイトで無政府主義を標榜している私でさえも、無政府主義者の日本人と話したことは一度もない。私自身も30才を過ぎるまで、政府は人間にとって当然の制度であると思っていたし、今でもそういった感覚は理解できる。いわんや普通に生きている人たちであれば、犯罪者を含めて、全員が政府の存在意義を認め、それは不可欠な存在だと感じているだろう。
 王制や貴族制に比べると、現代の民主主義社会では、政治家や官僚になるチャンスは誰にでも開かれている。このため、治者と被治者とが一体化しているという「政治論理」が唱えられる。これはもっともな意見だ。
 豊臣秀吉は、立身出世によって天下人になった。しかし、彼の生まれ合わせた戦国時代の一時期を除けば、古代の天皇制、貴族性、武士による幕府政治など、どの時代にしても政治システムを昇るためにはある程度の血統を要求されてきた。日本の歴史において、今太閤と呼ばれた田中角栄を生み出した戦後の日本社会が、個人レベルでもっとも開かれた社会であろう。
 しかし、ここで問題にしたいのは、誰が政治を担うかという問題や、あるいは過去の専制王制に比べて、現代の民主政治がどれほど、より開かれていて、より科学と親和的であり、個人の自由を実現しているのかという点ではない。
 そうではなくて、「政治」という集権的な意思決定システムで我々の社会のどれだけのことを決定し、どれだけを私的な自治として個人に委ねるのかという点だ。つまり、政治活動と私的な活動の境界をどこに置くのかという問題だ。
 これについての政府の役割や大きさをめぐる議論では、治安維持や国防活動といった常識的な国家固有の活動は議論の極限であり、人々はそういった活動が国家によってのみ行わるべきことについて疑いを持っていない。私は無政府主義者であり、これについて異なった意見を持っているが、ここではそういった極限的な違いは重要ではなかろう。
 テレビを一見するだけでわかるように、国政を担う政治家たちが議論しているのは、国防や治安維持といった重要なことなどではない。政治活動とは、そのほとんどすべてが景気対策であったり、保険や年金などの社会保障システムの制度改革であったり、あるいは農業や中小企業保護であったりする。
 しかし、こういった「慈善」的な政府活動は、様々な理由からそれに反対する人がいる。また個々的な活動への評価も人によって異なっているのが現実だ。とするなら、そういった慈善事業は、その活動反対する人たちに対する強制力を使ってまで行うべきではない。
 私は前著『リバタリアン宣言』(朝日新書)において、何でもかんでも良いことは国がやるべきだという発想を、「クニガキチント」の思想と呼んで問題視した。国という強制力を伴う組織は、活動に反対する人々に対しても自分の意見を押し付けることができるという点で、特殊な暴力装置である。だからこそ、できるだけ謙抑的でなくてはならない。
 現実の道徳理念は人によって異なっている。だから、何かやればいいこと、素晴らしいことがあるという人は、自分の財産や労働力を使ってそれを実現しようとするべきだ。それが、ホームレス対策であれ、失業者対策であれ、年金制度であれ、自分で人々に呼びかけることから始めることができる。この場合、その目的遂行のために、最初から他人のポケットのお金を集める必要はない。
 このことに同意してもらえるかどうかは別にして、ここでは、このように「すべての社会活動について政治活動を当然である」と考えるような心理的傾向について、進化論的な視点から説明してみよう。
 私たちの進化的な過去において、戦争が頻繁であればある程、あるいは狩猟、農耕、治水などでの集団活動が重要であればある程、それに応じて政治活動というものも重要なものであっただろう。政治活動が重要であればある程、皆にとって良いこと、素晴らしいことは何でもかんでもクニガキチントやらなければならない、と感じるようになる。なぜなら、そう考える心理的傾向、あるいは感じるのが自然だと認識するような神経系が進化するだろうからだ。換言するなら、そう感じない個体からなる集団は戦争に弱く、あるいは食料の確保が不確実になり、構成員が増殖することはできなかっただろう。
 5章のテーマに沿っていえば、そういった政治活動の過去の生活における重要性のデアルから、社会的な価値の認知としてのベキダが導かれた。「政治活動などくだらない、あるいは意味がない」などというニヒリストは決して集団のリーダーにはなれず、リーダーとしての権力に伴う多くの利益を得ることができない。無政府主義者が抹殺されるような環境では、無政府的な思想に神話的な神経回路が発達することはない。
 このため、人間の認知は「政治」の重要性、あるいは価値について、現代社会には不必要に重きを置いている。私自身が少年時代に感じていたところでも、良いこと、素晴らしいことは政治家によってなされると感じていたし、そうも教えられていたように思う。
 しかし、これは現代の自由社会にはそぐわない価値観である。政治活動を行うためには、誰かから税を集める必要があるが、税を喜んで払いたいという人は寡聞にして存在しないようだ。ということは、政治活動の「ほとんどすべて」に対して、本当のところ、人々は同意していないのだ。あるいは、自分だけが政治活動からの利益を得て、その対価を支払いたくはないのかもしれない。
 そのどちらでも構わない。どちらにしても、多くの人が心の底では同意していないことを、強制的に押し付ける政治家が「えらい」人だという、過剰な価値づけはやめる必要がある。自由な社会での「えらい」人というのは、自分の財産や労力を使って何か良いこと、望ましいことをする人のことであって、その反対に、あることを望ましいと思っていない他人を強制労働させたり、その他人の財布からお金を無理やり集める人たちではない。
 我々が現在持っている、政治活動を過剰に重視するという人間心理は、ゼロサムゲームの社会で形成されてきた。それは、現代、あるいは未来に広がるプラスサムの社会にはまったくふさわしくない。


アイヒマン実験、あるいは『権力への服従
 スタンフォード大学で行われた監獄実験について前述した。それは、人間は権力を握ると、嗜虐的な性質を露わにすることも多いということであった。公認された権力がサディズムの傾向を持つなら、その受け手には権力に対する服従傾向があると予想するのは自然だろう。
 こういった人間の持つ「服従心理」の実験は、監獄実験に先立ってイェール大学で一九六一年に行われた。当時、若き准教授であったスタンレー・ミルグラムは、ナチスで実行されていたような大量殺人が、上司からの命令によって通常人に本当に可能なものなのかを実験しようとした。
 もし、普通の人が実行不可能なのであれば、ナチスガス室の管理を行っていたアイヒマンなどの人物は、その人格がもともと異常だったからだといえるだろう。その反対に、平時のアメリカ人でさえも権威的な命令への服従が起こるなら、それは相当程度、人間の普遍的な性質であるということになる。
 ミルグラムの実験では、被験者を新聞で募り、40人の多様なバックグラウンドを持つ人々が集めれた。被験者は、役者であるサクラとペアになり、サクラが学習者、被験者がその教師役として、学習実験に参加していると説明された。被験者とサクラは部屋を別にされ、マイクを通して声が伝わり、ガラス窓を通して様子が見えるようになっていた。サクラが解答を間違えるたびに、被験者は次第に強い電気ショックを与えるという行為を、監督者であるミルグラムの監視下に要求された。学習者に与えられとされた電気ショックは、実はまったく存在しない。
 被験者には45ボルトから15ボルトずつ上がってゆき、450ボルトまで目盛りがあるように見える。そして375ボルトから420ボルトはは赤のメーターになっており、「危険」と記されている 420ボルト以上は「XXX」と記されている。ショックが与えられると、電圧が上がるにつれて、役者は叫んだり、ガラスを叩いて心臓の不調を訴えたりするが、途中からはぐったりとして反応をやめるように、あらかじめ決められていた。
 この実験では、途中で止めようとした被験者に対しては、監督者が口頭で、4種類の促しを与える。「続けてください」から「あなたに選択肢はありません。続けなくてはなりません。」まで、次第に強くなる命令であった。
 この実験では、危険領域である300ボルト以下で実験参加を放棄して行為を停止した参加者は40人中1人だけである。監督者の監視下に置いて、26人が最大電圧の450ボルトのショックを、すでに何の反応しなくなったサクラに対して与え続けた。多くの被験者は、途中にミルグラムがすべての責任を取ることを求めたり、止めたいとは申し出たり、あるいは、明らかに大きなストレスを感じたりしながらも、結局はミルグラムの指示に従ったのだ。
 この実験に先立って、ミルグラムは学生に、どの程度の割合が450ボルトまでショックを与え続けることが予想されるかを聞いた。学生たちが、最後までショックを与え続けるだろうと考えた被験者の人数の平均はわずかに1.2%だったが、実際の実験では65%にもなった。
 この実験の教訓は明らかで、それは「公式の権威に対して、人間は服従する強い傾向を持っている」というものだ。服従は、ナチス支配下アイヒマンという個人の属性ではなく、おそらく人間の普遍的な心理なのだ。
 この実験は大きな反響を呼んだ。多くの似たような実験が為されてきたたが、その結果は次のようなものである。イェール大学のような伝統のある大学内で、白衣を着た教授が命令する場合の方が、単なる商業ビルの一角での実験よりも服従性が高いこと、被験者と学習者の接触度が高くなれば服従が弱まること、監督者が被験者に近ければ近いほど服従は強まること、複数での実験の場合、別のサクラ被験者が公然と反対を唱えると服従は弱まること、などが確かめられた。こういった感覚は、どれも人間として至極もっともだ。
 この実験は、本当に興味深い。結局のところ、イスラエルで裁判にかけられたアイヒマンはドイツの公務員だった。大量殺戮とはいえ、国家からの公的な命令に単なる公務員が反逆することができるとは思われない。同じように、戦前の日本社会に生きていた人なら、徴兵を拒否したり、大陸で民間人の殺害を拒否することなど不可能だ。
 人間は集団で闘争をしてきたり、あるいは集団での狩猟活動を行ってきた。その中で権威に反対することは、そのまま死を意味しただろう。それはおそらく人権思想の確立した近代以前のすべての社会に当てはまる。いつの時代でも反権威的な人物は、大きなリスクを甘受さざるを得なかったのだ。
 ミルグラムは84年に夭折したが、彼の『服従の心理』は最近、翻訳家として有名な山形浩生によって再訳された。ぜひとも読んでいただきたい一冊である。


ポパーの歴史批判
 さて「強制力の行使である政治活動を重要視するべきではない」という考えは、ほとんど市井で聞くことはないし、メディアでも圧倒的なマイノリティである。これは厳然たる事実だが、だからといって独自のものだというほどに奇妙なものではまったくない。
 ポパーは『開かれた社会』の「第25章、結論」において、「歴史に意味はあるか?」という問いに対して、「歴史というものは、過去の人間の諸行為に対して我々が価値づけをおこなった記述にすぎない」と答えている。以下に、かなり長くなるが、ポパーによる歴史批判を引用したい。

「大部分の人はどのようにして「歴史」という用語を使用するようになったのであろうか。・・・彼らは、この用語を学校や大学で学ぶ。彼らは歴史についての著作を読む。彼らは、「世界史」とか「人類の歴史」という表題を持った著作で何が取り扱われているのかを理解する。そして彼らは、歴史を多かれ少なかれ一定の事実系列とみるようになる。そうして、彼らは、これらの諸事実が人類の歴史を構成している、と信じるのである。
 しかし、われわれは既に、事実の領域は無限に豊富であること、そして選択が存在せざるを得ないことを知っている。われわれは、われわれの関心に従って、例えば、芸術史、あるいは言語史、または飲食習慣史もしくは発疹チフスの歴史(ジンサーの『ネズミ・シラミ・歴史』を見よ)について書くことができよう。確かに、これらのどれ一つとして、(それらすべてをまとめ合わせたとしても)人類の歴史ではない。人々が人類の歴史について語る時、念頭に置いているのはむしろ、現代に至るまでの、エジプト、バビロニア、ペルシア、マケドニアローマ帝国、等々の歴史である。換言すれば、彼らは人類の歴史
について語っているのであるが、しかし、彼らが意味し、彼らが学校で学んできたものは、政治権力の歴史なのである。
 人類の歴史などは存在しない、ただ無数の、人間生活のあらゆる側面の歴史が存在するのみである。そして、それらの一つが政治権力の歴史である。この歴史が世界史にまで高められている。しかし、私見によれば、これはまじめな人類概念すべてへの攻撃である。それは、ほとんど、横領、略奪、毒殺の歴史を人類の歴史とみなすことに等しいのである。なぜなら、権力政治の歴史は国際的犯罪と大量虐殺の歴史(まことにそれらを抑制しようとする若干の試みを含めて)にほかならないからである。このような歴史が学校で教えられ、幾人かの最大級の犯罪者が歴史の英雄として褒めそやされているのだ。
 しかし、人類の具体的な歴史という意味での普遍史の如きものは本当に存在しないのであろうか。そのようなものは存在しない。これがすべての人道主義者、特にすべてのキリスト教徒の返答であらねばならない、と私は信じる。人類の具体的な歴史は、もし存在するとするならば、すべての人間の歴史であらねばならないだろう。それは、すべての人間の希望、闘争、苦患の歴史であらねばならないだろう。なぜなら、ある者よりも重要な人間というものは存在しないからである。明らかに、こうした具体的な歴史を書くことできない。われわれは捨象せねばならないし、われわれは無視し、選択しなければならない。しかし、それ故に、われわれは多種類の歴史に到達するのであり、中でも、人類の歴史として喧伝されてきた国際的犯罪と大量虐殺の歴史に到達するのである。
 しかし、何故に、権力史がまさしく選択されて、例えば、宗教史、あるいは詩の歴史が選択されないのであろうか。これには幾つかの理由がある。一つは、権力はわれわれのすべてに影響を与えるのに対し、詩はごくわずかの人にしか影響を与えないということである。他は、人間には権力崇拝の傾向があるということである。しかし、権力崇拝が人間の持つ最も性悪な種類の偶像崇拝の一つであり、獄舎の時代、人間が奴隷として生きていた時代の遺物であることに疑いはありえない。権力崇拝は、軽蔑されても当然な感情である恐怖から生まれたのである。権力政治が「歴史」の核とされてきた第三の理由は、権力者は崇拝されることを欲したのであり、そして彼らのその願望を強制できたということである。あまたの歴史家が、皇帝や将軍や独裁者の監督下に著述したのであった。」(傍点は原著ではイタリック)

 ポパーがこの文章を書いたのは第二次世界大戦中であり、当時は20世紀の世界大戦の悲惨さに直面して、バートランド・ラッセルをはじめ多くの人々が、人道主義的な立場から戦争批判をしていた。この時代性を考慮しつつ上の文章を読めば、ポパーの政治権力批判の意味がはっきりする。
 現在の日本人にとっては、政治活動というのは、あからさまな戦争行為というよりは、各種の自由の侵害や徴税というようなもっと穏健なものだ。しかし、政治権力の「強制性」については、上記の記述は変わらぬ普遍性を持っている。
 人間に関連する行為や事実は、過去に無限に存在している。その中から我々が直観的に重要だと思うものを概説したのが「世界史」と呼ばれるものである。そして、私や読者が大学入試のために覚えたように、その内容は圧倒的に殺戮と暴力的支配、隷属の事実についてである。
 いい加減に、政治活動の過剰な重視はやめねばならない。
 当然ながら、政治学などを研究する人々をはじめ、我々のほとんどは政治活動が「特別に高尚」な活動であるであるという価値観を持っている。例えば、ナチスの迫害から逃れてアメリカに亡命したハンナ・アーレントは、他の活動を上回る政治活動の優越性を認めた。あるいはフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスは、政治的な対話を「コミュニケーション的行為」として重視している。
 しかし、こういった政治重視の直観こそが、我々の長年の進化心理の産物であり、権力崇拝を再生産しているのだ。いい加減に、政治家が「えらい」人だという素朴信仰は、ある種の宗教であると認識して、やめるべきだろう。


「強制的」でない社会
 これまで私が説明してきた歴史観は、「現状を維持しようとする保守的な精神に反して、革新的な精神の持ち主たちが啓蒙主義から民主主義政治を生み出し、同時に科学的な探究を肯定して、現代の豊かで自由な社会を作り出してきた」というものだ。
 もちろん、こういった歴史の記述は、多少なりとも単純化しすぎではある。しかし、全体としてそういう方向であったということは間違いない。
 今後の課題は、保守対革新という対立軸においてさえ、そもそも政治活動が重視されすぎていることにある。つまり、民主主義という政治体制においてさえも、その政治活動の外延(つまり広がりの縁)を決めるのは政治活動自体であるという点で、個人の活動の自由を規制しがちなのだ。
 政治活動には不可避的に有形・無形の強制力が含まれるが、私的な活動は自分の意志で行われる以上、定義によって自発的である。そして、この自発性こそが人間の最も素晴らしいものを作り出す原動力だ。つまり、現在の世界各国の進歩主義においてさえ、旧態然とした政治的な力を使って素晴らしいと思われることを国民に強制しようとしていることが問題なのだ。
 前に、進歩主義的な思考が社会制度の改革に対して、一般的に肯定的であることを見た。この思考こそが、世界各国の民主的、あるいは進歩主義的な改革政党が、自由な資本主義から生じる格差などの諸問題の解消に向けての政治プログラムを組む理由だ。
 しかし、未来の自由と豊かさは、これまでのように政治活動を特別視する価値観の延長線上には存在しない。我々がこれまで抱いてきた、政治活動がまず価値的な中心にあり、経済活動が辺縁にあるというような感覚自体を、ここで脱ぎ捨てる必要がある。
 優秀な人間は公務員になったり、政治家になったりするのではなく、インターネット起業家やトヨタのエンジニアになったり、あるいは各種の慈善的なNGOで活動する。これこそが、戦争行為や国家による強制行為を当然視しない、未来の社会の価値序列である。
 では、拡大しつつある格差については、どう対処すべきなのか。
 資本主義の構成要素である生産活動や交換活動は、もともと完全に自生的な秩序であるから、それらは政治による強制がなくても機能する。しかし、資本主義の結果が所得の平等を実現するという保証はないし、実際に20世紀の終わりごろから、どうやら不平等は拡大しつつあるようだ。
 このような、地球規模の資本主義経済の拡大と、その結果としての不平等の拡大が不愉快であると感じるとしよう。その場合、資本主義的な生産様式、交換様式の効率性を肯定し、その結果として生じる所得の不平等については、事後的な再分配によって矯正する混合経済的が良さそうだ。
 これは、現在の北欧モデルなどに代表される進歩主義政党、社会主義政党の政策である。スウェーデンフィンランドデンマークなどの諸国では、社会政策がうまく機能していると報告されている。あるいはこういった政策を目指すのも一つの方法かもしれない。
 私が北欧モデルに共感しない理由には、リバタリアンとしての自由権の重視がある。税が高いことは、つまり自分が自由に処分できる資源が減ること、最終的には自分自身の個人的な幸福追求権を侵害せざるを得ないことを意味する。伝統的にインテリの間では物質的な幸福の追求は蔑視・軽視されがちだが、結局、可処分所得が税として集権的に決定されているのであれば、私が個人として追求したいことは大きく制約されてしまう。
 これと同じように重要な事実には、国を構成する人口規模がある。北欧諸国の人口を見ると、デンマーク540万人、スウェーデン900万人、ノルウェー470万人、フィンランド520万人である。これに対して、日本やアメリカ、ロシアや中国などの人口は、この10倍から300倍にもなる。
 このことは大変に重要だ。
 こういった国々の数百万人の人口というのは、日本では東京や神奈川、埼玉、あるいは大阪よりも小さい。行政機構全般の冗長性、無意味さ、非効率、あるいは天下り官僚の作り出す非効率などは、人口規模が大きくなるに従って幾何級数的に急速に増大する。これは私の主観的な経験則だが、つまりパーキンソンの法則と同じだ。
 人口規模、つまり予算規模の小さない北欧諸国では、日本のように国家主義的で非効率な農業政策は横行しないし、自然破壊でしかない公共事業費も計上されない。また、官民一丸となって、世界一のコンピューター産業を作るというような無謀・無駄な計画もありえない。人口が数百万人程度の小さな政府にできることは、世界のすう勢に適合した産業に向けて、職業教育内容を変更したり、あるいは実際に介護サービスを充実させるという程度に留まる。
 国家行政の非効率性は、東京都だけで国家を作っていれば、現在の日本の100分の1に低減するだろう。勝手に断言するなら、おそらく人口の2乗ほどに比例して、政治の効率というものは低下してゆく。これは霞が関に広がる特殊法人の数についてもいえるだろうし、あるいは各種の経済規制的な法律の与える生活へのマイナス面においても当てはまる。
 どのみち、現代の市民生活を支える多様な消費物資は、世界的な貿易によってのみ可能だ。いろいろと関税をかけたり、検疫上の難癖をつけて外国のものを輸入しなければ、結局は市民生活の水準が低下することになる。衣料品や医薬品、家電製品など様々な製品についても同じである。
 独自に農産物や工業製品の様々な基準を作るというのは、それだけで無駄でバカげた役人の労力投入である。また、国内の独自規格の存在は、国内の非効率的な産業を保護して、消費者として高くて悪い製品を使うことになる。これはJIS規格に守られた日本の上下水道施設や、あるいはインドからの後発医薬品を受け入れないような政策のことだ。
 シンガポールや香港のように、東京や大阪だけで国を構成するのなら、食物自給率を上げようとか、あるいは世界標準の無線技術を策定しようとか、そういったことは議論にならない。それらのバカげた主張や議論の代わりに、どうやって隣国との軋轢を下げて、より友好的に豊かに生きるのかを話し合うしかない。
 この意味では、日本を分解して、10から20の国に分けてみれば面白いだろう。それぞれの地域が政策を競い合えば、中には良いものも出てきて、あるいは年金制度などももう少しマシになるかもしれない。
 結局、大きな国の政治ゲームとは、他人の血税をいかに素知らぬ顔、涼しい顔で楽しく吸えるかに依存している。道徳的に納得しながら、見知らぬ他人の税金で楽しく暮らせるのであれば、それほど楽しいことはない。納税者が見知らぬ人であればある程、周囲の不景気や貧困を横目に、「自分は十分に働いている、あるいは働いた」という自己欺瞞で生きることが可能になる。
 ここでの主張は、1、日本に限らず、すべての国の政府は警察・裁判・国防などの最低限度にとどまるべきであること、2、そして社会保障や年金、医療保険などは民間企業、あるいは慈善事業とのコラボレーションによって、できるだけ強制力を配した形で行われるべきだ、というものだ。
 現代の福祉国家の行っている慈善的な事業はすべて、NGOに任せるべきだというのが、私の考えである。そうした方が純粋に経済的な効率が高いという理由からだけでない。まったくサービスを好ましいと思っていない人々からも強制的に金銭を徴収し、サービスを与えるという、まさに非倫理的な行為をやめさせることができるからだ。
 政治活動は、我々の進化過程においてあまりにも重要であった。そのため私たちは、政治こそが善をなす活動だと自然に感じ、それを子どもたちに教育し続けてきた。だが、これは、強制による収奪ではなく自発的な交換を主とする社会にはふさわしい考えではない。良い活動とは、オープンソース運動のようにヴォランティアによって自発的に提供され、その利用もまた強制されないようなものでなくてはならない。このとき、社会に生きる人々はもっとも自由であり、かつ豊かに生活できるだろう。


オープンソース型の「政治」活動
 強制を伴わない政治活動というのは、確かにこれまでの常識からは想像できない。ある意味で、語義矛盾とさえ言えるだろう。それはその通りなのだが、治安維持や国防・外交活動などを除けば、社会保障や健康保険、あるいは年金などの社会福祉活動は、別段、強制的に制度化される必要はない。
 日本には多くの総合病院があるが、そういった病院は営利目的ではないことを高らかにうたっていることが多い。だったら、ヴォランティア精神のある医師を低い給与で雇用して、保険事業者と契約して独自のサービスを始めてもいい。医師法さえなければ、誰でも自由に医療行為ができるし、安い給与でも働きたいという人はたくさんいる。
 同じように、介護保険についても、低い給与でも働く気のあるボランティアの集う会社が、独自に保険を売り出してもいいだろう。もちろん、介護保険についてノウハウを持つ保険会社が、そういった病院や介護施設とタイアップすれば、もっとサービスはよくなるはずだ。
 どういったサービスを提供するにしても、制度への強制加入という足かせがなければ、各施設や保険会社はそのサービスを競うだろうし、実際のサービスが悪ければ、客は急速ひ引く。反対に、政府が一元的に福祉制度を提供すれば、それに似たサービスは存在できなくなるだけでなく、政府のサービス自体も競合するものがないために劣悪化しがちになる。
 こういった自発的な制度などは、まったくの夢物語であると感じる人は、一度リナックスやあるいはオープンオフィスなどのフリーソフトウェアを使ってみるといい。私はこれらの製品が、ウインドウズやマイクロソフトのオフィスに比べて劣っているとは感じないし、少なくとも必要なものはすべてそろっているという点で十分に満足している。
 国家に一つという画一的な制度ではなく、もっと小さな制度や組織がたくさんあった方が、一人ひとりに適合したサービスが提供できる。もちろん、制度の選択肢が増えるのだから、その選択には弁護士や医師、あるいはファイナンシャル・プランナーによる相談のようなサービスを利用する必要もまた生じる。
 これは例えば、無料であるリナックスでさえも何種類もの異なったディストリビューションが存在し、それぞれの長所短所があり、あるいはシステムのメインテナンスは知的なスキルとして有料であることに似ている。
 社会保障のようなサービスは、どの程度貯金をするか、あるいは多様な健康リスクに対してどのように対処するのかという、きわめて個人的な性向に大きく依存している。本来的に画一性が求められるようなものではない。
 本来的に異なったサービスを求めている人々に、国会の場で集権的に決議し、無理やり全員に同じ制度をあてはめようというのが政治活動だ。そこには当然に倫理的な問題も生じれば、あるいは経済的な非効率も生じてしまう。
 政治活動を志すような高い倫理観をもつ人は、オープンソース運動のように、まず人が本当に喜んで自発的にメインテナンス・コストを支払うような商品やサービスを提供することから始めればどうだろうか。それはまさに、民間企業やNGOの行っていることだ。
 さて、政治活動は、おそらくは遺伝的に我々の活動の中で最高の価値を持つものだと認識されている。だからこそ、こういった政治活動そのものの強制性、自由と繁栄とのトレード・オフについて人々に納得してもらうことが、私にとっての個人的なミッションである。
 啓蒙主義以前の世界で、全成人による普通選挙からなる民主主義の価値を信じていた人など一人としていない。これは間違いのない事実だ。だが現代の社会では、保守的な人々の間でさえも、民主主義の価値を差し置いて軍政や、あるいは王制に戻ろうという人は皆無だ。
 それは人間が歴史的に多くの実験を経て、民主主義社会の方がより自由で、豊かに生きれることを学んだからである。同時に、ヨーロッパ諸国は、その進んだ科学と経済力を背景にして、軍事的にも圧倒的であった。このことも間違いなく、アジア人を開眼させた理由だろう。
 ここで、これらの歴史的な知識なしに、人間がその精神の赴くままに、もう一度ゼロから政治体制を作るとしよう。この場合、秩序維持的な精神が発揮されて、再び王制が主流となるに違いない。前述したグラフでいえば、人間の歴史的な知識のない状態の最頻値は、王制に違いないのだ。
 この意味で歴史や社会制度のもたらす帰結の違いを知ることは、大変に有意義だ。結局、有権者のほとんどが、「最小限の政府が治安を維持し、それ以外の福祉活動はNGOに任せる」という方法がもっとも自由と豊かさを実現することに納得しなければならない。その時、そういった政治活動の最小化は、現代の民主主義と同じように、教育やマスコミを通じて疑問の余地なく「信仰」されるに至るだろう。


小さな政府や自由と日本人
 さて前述したように、日本人(おそらくアジア人)の場合、そのパーソナリティのレベルにおいて、新奇性追及の程度が低く、不安の度合いも大きい。それに一致するのだろうが、自発的な人々の善意よりも、権威的な政府による秩序を好む保守的な精神性が強いように感じる。
 ジョストが報告しているところでは、アメリカでも二〇〇一年の世界同時テロ9.11以降は、多くの人々が保守的な政治傾向を強めたという。採りたてて政策上の成功もなかったブッシュ大統領が再選されたのも、この事件の影響で多くのアメリカ人が伝統的秩序を重視する共和党を支持したからだ。
 これは、実に理解しやすい構図である。日本の場合にも、右翼・左翼のスペクトラムは時代背景によって相当に変化してきた。日本にも、戦後50年もの間、社会党という比較的大きな左翼政党があったのは、あるいは第二次世界大戦の敗戦というきっかけによる厭戦ムードがあったからではないかと私は思っている。実際、沖縄や広島・長崎で革新反戦勢力が強いのは、戦争の被害が甚大だったからだ。
 しかし、戦後も半世紀以上を過ぎて、人々は戦争を忘れつつある。そして、現在の2大勢力と呼べるのは自民党公明党と、民主党だ。これらの政党はみな中道から保守寄りの政党であると考えられるが、日本の政治では完全に主流を形成している。その反面、明らかな進歩主義政党である社民党共産党は、かつての社会党共産党ほどには大きな勢力ではない。
 今後の経済格差の増大に伴って、あるいは社民党共産党が急速に伸長する可能性は、残っていないわけではない。しかし、私には、現状が日本社会の基本的なメンタリティだろうと感じられる。前述したが、明清時代の中国、李朝時代の朝鮮、あるいは江戸時代の日本のどこにおいても、自由も科学も存在しなかったのは歴史の公然たる事実だ。
 東アジア圏では、儒教の伝統の圧倒的な精神支配は、19世紀まで連綿と続いていた。西洋社会との接触がなかったら、なお数千年、あるいは永遠に続いたに違いない。儒教、特に宋学以降の儒学は、徹頭徹尾現状維持的、権威肯定的な精神性である。これは良くも悪くも東北アジア人の比較的な精神特性なのではないかと疑われてしまう。
 これは私の政治的な信条である、究極の脱権威主義としての無政府主義とはまったく相いれない。そして、こういった認識は私自身の「認知的な不協和」を増大させてしまっている。私の信念からすると、現実がそうではない方が都合がいいが、やはり自然科学的な視点からは、自分に都合がいいからといって否定することはできない。
 これが真実なのかどうかは、わからない。しかし仮に本当だったとしても、私にできるのは、私自身が「善なるもの」、「価値のあるもの」だと信じるベキダを日本語話者に納得してもらうよう訴えかけること以外にはない。なぜなら、私の信じるベキダと、日本人の平均的な精神性についてのデアルとは、親和的であるかないかは別にして、やはり別のものだからである。







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カール・R・ポパー 『開かれた社会とその敵』 第一部 プラトンの呪文 内田詔夫・小河原誠訳 未来社 一九八〇年
カール・R・ポパー 『開かれた社会とその敵』 第二部 予言の大潮 小河原誠・内田詔夫訳 未来社 一九九〇年
カール・R・ポパー 『推論と反駁 科学的知識の発展』 藤本 隆志訳 法政大学出版局 一九八〇年 
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中村 禎里 『日本のルイセンコ論争』 みすず書房 一九九七年 
マーサ・スタウト 『良心をもたない人たち――25人に1人という恐怖』 木村博江訳 草思社 二〇〇六年
ランディ・ソーンヒル、クレイグ・パーマー 『ひとはなぜレイプするのか――進化生物学が解き明かす』 望月弘子訳 青灯社 二〇〇六年
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フランス・ド・ヴァール 『政治をするサル――チンパンジーの権力と性』 西田利貞訳 平凡社 一九九四年
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エドワード・O・ウィルソン 『社会生物学』 坂上 昭一・宮井 俊一訳 新思索社 一九九九年
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