kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

遺伝子が俺を殺人に駆り立てたんだ!

人殺しをした生物学的父を持つ男が、
養子として通常の家庭に育ったが、
生物的な父と同じように残虐な殺人をしてしまった。
弁護士は、「彼には殺人の遺伝子があり、
彼はその言いなりになったのであって、
責任を問えないのだ」と主張した。


これは例によってアメリカで実在した事件だが、
遺伝的な傾向と責任を混同する典型的な弁護士の理論だ。
刑法の理論でも(あまりに難しいためだろう)この辺は完全に学者から無視されてきた。
僕はかねてからこの意見が奇妙極まりないと思っていたのだが、
Micheal GazzanigaがThe Ethical Brain邦訳『脳の中の倫理』の中で、


「責任とは人が持つ属性であって、脳が持つ属性ではないからだ。
責任とは道徳上の価値であり、
ルールに従う同朋の人間たちに向かって私たちが要求するものである」


という腑に落ちる説明を読んで、これまでの自分の考えがまとまった。
なお、これは「自由意志」の実在、物理的因果律の問題とも絡んで、
哲学的な論争となってきたものだ。


人間は物質によって構成されるという点で因果律に従うけれど、
「自由意志」とは、我々相互の個体の行動についてのルールであって、
それに反すれば、どういった処遇を他の個体が与えるかについてのものだ。
つまり、説明のレヴェルが異なっているので、
個体を構成する物質レヴェルの決定論と、
個体の行動への規範レヴェルとしての「自由」が異なってもいいのだ。


ちなみにGazzanigaによると、同じ論理はAyerの哲学でも展開されていたらしい。


前述の男の例では、
なるほど男は殺人をしたくなる脳回路、
あるいはほとんど自動的に殺人をするほどの脳回路をもっていたのだろう。
だが、その回路の実在は、男の「責任能力」を何ら阻却しないのだ。


これは被害者の立場から見れば、さらによく理解できるだろう。
私の肉親が必然的殺人犯に殺されたとしても、
私はその男が無罪になるとことにまったく同意しない。
(もちろん、これは常識的刑事法学との決別を意味する)
私はどういう理由であれ、犯人の行為の結果への認識を持って責任を負うべきだと感じる。


さて、ここでの結論は実は刑事法学的にはかなり大きなもので、
実際にはほとんどの責任阻却理由を認めないということになるだろう。
そもそも、なぜ刑事法学者たちは、自分たちが理解する気も放棄したままに
簡単に心理学者などというあてにもならない専門家に判断を委ねてよしだとするのか?
つまり、「みんなで渡れば怖くない」という
政府機構の持つ無責任体制の極みなのだろう。