kurakenyaのつれづれ日記

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ヒトにおける群淘汰

こんにちは。

 

 

デイヴィッド・スローン・ウィルソンについては、2007年に書いた論文がもっとも有名だと思う。そこで彼は多くの生物種で、個体をこえた選択「群選択」が機能してきたというmulti level selectionの理論を展開している。

 

個体をこえたというのは、例えばアリやハチなどは真社会性の昆虫であり、女王以外の個体は生殖活動を行わない。すると、巣の個体が自分の遺伝子を残す方法は、自分の遺伝子を分けた母親である女王の繁殖を通じて、だけになる。

 

ヒトにおいても、生殖細胞以外の細胞は遺伝的にはデッドエンドで、個体の死とともに滅びるしかない。精子卵子になる生殖細胞以外の細胞は、40-50兆個の他の細胞と協力して大きな個体を形成して、その遺伝子の拡散については生殖細胞に委ねるというわけだ。

 

ヒトにも群淘汰的な側面があったことは疑いない。戦争に勝てば、敵の男を皆殺しにして、女を戦利品とするのは、歴史的には当然の活動だった。このことはほとんどのインテリにとって不愉快に思われるために、歴史学や人類学などでは、戦後を通じて次第に「こうした事実は、人間の歴史に存在しない」みたいな解釈が普通になってしまった。だけど、ジンギスカンの男性の子孫は、実際に1600万人もいる! 

 

さて、DSウィルソンの群淘汰を含むmulti level selectionでいう淘汰には、こうした戦争は当然として、あるいはその他のすべての行動様式が含まれる。例えば、今のようなウイルスに対する慣習を考えてみよう。「なんらかの禁忌として手洗いをする民族は、しない民族よりも感染症に強いため、より適応価が高い」みたいなことも、抽象的にはあり得る。これは、これでクロポトキンなどが感じた自然淘汰の1態様だが、そういうのも実際にあったに違いない。

 

 

話がそれてしまったが、それにしても戦争が圧倒的に重要だったことは間違いない。結果、ヒトの神経系にはよそ者への嫌悪が埋め込まれる。そして緊急事態になると、よそ者への排斥運動が、ごく自然にまき起こる。

 

さてこうしてDSウィルソンの提唱するmulti level selectionについては、ボク的には(今では完全に)納得している。そうすると、彼自身が本書で主張しているように、「個人を中心として行為基準を考えるのは、自然科学的に間違っている」というような主張が成り立つのだろうか。

 

いやいや違う。

 

この考えには納得できない。それは自然のあり方から規範のあり方を演繹しようとする自然主義の誤謬だからだ。おまけに、我々の当為概念における議論の次元は、つねに個体=個人のレベルでしかありえないことも、完全に無視している。(個々の細胞が、あるいは国家という超実在が、倫理判断をしえるのか??)

 

みなさんも考えてみてください。

 

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