先日zopeの桜井さんモジログからもらったメールで
ウィーン学団のカルナップの話が出ていた。
それで、小生は大学に入ってからいろいろと勉強した中でも、
論理実証主義には大いに惹かれたのを思い出した。
あれは駒場の割と特徴のない図書館でのことだっただろうか。
関連する書籍は当時の僕には難しすぎるように感じたが、
しかし扱っている内容の重要さには真剣に理解しようとしていたと思う。
実のところ、小生が大学に入って驚いたことの一つが、
「啓蒙の弁証法」も、当時はやっていた「構造と力」も
あるいはフーコーもデリダもまったく理解できなかったことである。
正直、自分がまったく理解できないことがこの世にあるなんて!!?
自分が間違っているか、彼らがトンチンカンなのか、
当時は二者択一であり、当然にこっちが正しいのだと思っていたが、
今になってみると、それはカルナップたちが感じた
ヘーゲルなどの観念的な哲学などへの違和感と同じものだった。
「無意味な命題」と「有意味な命題」を峻別しようとしたウィーン学団の意図は
その時代にはびこっていた、形而上的な哲学というかエセ科学というか、
に対しての反発だったのだと僕は理解している。
その後、ポパーを読んでみると、彼は、
「検証不能な命題であっても、それが科学的な仮説にインスピレーションを与えるのであれば、
無意味とまでは言えないだろう」というような意見を持っているようだ。
で、安直ながら、僕はこれはもっともだと感じて、現在にいたっている。
おそらく、デリダのわけのわからない文章、あるいは命題モドキは検証できないが、
それでも我々のニューロンの何らかの配列の妙によって、
その比喩やメタファーは有意味なものだと感じられるのだろう。
とはいえ、基本的に僕の構造主義や観念論への無理解は相変わらずだ。
桜井さんへのメールに書いたように、僕は検証できる、そして
誰にでも客観的に納得できる科学的な人間像とその社会現象の理解を目指しているのであって、
文系のナヨナヨしたインテリのみに興味深い言葉遊びなどは求めていなぁーーーい!!