kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

小さな前進、とコメントへの返答

今日はバスティアの6章について小さな進展があった。


もともと僕が訳していた英訳に加えて、別のサイトを発見した。
(といっても、前から読んでいたサイトだったのだが。バカな小生)
ので、Malesuada fames について理解できた!


Malesuada fames の訳についてなのだが、
male が「悪い」であるのは当然だし、fames が飢餓であるのはわかるのだが、
sueda って何? という疑問だった。


訳注を読むと、これはローマの詩人ヴェルギリウスのアエネイスにある句であるという。
日本語では、漢文っぽくすると古典に感じられるので、
「飢餓は、悪なる相談者なり」とでもなるのだろうか。


ともかく、ローマの古典が19世紀当時のヨーロッパの常識であったのは、よくわかった。
ちなみに、小生は四書五経は漢文で大学入試のためにそれなりに学習したのだが、
残念なことに、そこから思想として学んだものはまったく存在しない!
日本社会の多くの人々が重要だと考え、それにしたがって高校時代の相当な時間を費やしたが、
僕個人として何も得るものがなかったと言うのは、かえって何かを示唆していて、実に興味深い。
このことについては、また日を改めて詳述したい。



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さて孤独な殉教者である小生のブログに、坂東αさんが、
東洋と西洋のメンタリティのステレオタイプに疑問を呈しておられるのだが、
僕はこのことについて、大学以来、非常に長い間考えてきたが、
僕の見解をサポートする心理学実験もたくさんあるのです。


また書くことになるかと思うが、カントール集合論的な対応を考えれば、
どういった結論も見出せないと思うけれど、それはここではメンドイし、面白くないのでやめます。


なぜアジア人が解析的、論理的テストに弱いのか、
あるいは空間知覚に優れているにもかかわらず
要素還元的な方法論を特徴とする科学は、こんなにも停滞しているのか?
中国本土などには、ほとんどまったく見るべき科学的思考はない。


多分に主観的であることは認めるが、関孝和儒教全盛の(クソのような)知的伝統の中で無視されたが、
ギリシャ以来の論理、幾何学への偏愛、数学のような形式論理の発展、
などは東洋のメンタリティでは起こらなかったのでは?
今もノーベル賞フィールズ賞は圧倒的にヨーロッパ人が受けているが?


ちなみに僕は小さなときから全体論弁証法などというのを理解できたことがないし、
そういったものはすべて単なる言葉遊びだと感じてきた。
しかし、Nisbettの本を読むとそうでもないらしくて、どうも人間の思考というものには方向性があるらしい。
つまり孔孟、西田哲学や鈴木大雪、あるいはヘーゲル的な弁証法などは無意味命題なのではなくて、
どうも、そういう風な全体論的な発想を好むような神経回路がある人々がいるらしいのだ。


たまたま解析的、要素還元的な思考法を好む人たちが、近代以降の科学を作り出したと言うこと。
もちろん、現実の世界が要素還元主義で記述されるようなものかどうかは、ある意味の偶然に依存しているので、
どちらが(適応戦略的に)優れているというものではないのかもしれないのだが。


そもそも僕は「文化」などという言葉に多くを頼ること自体が誤謬の原因だと思っている。
文化とは、そこに属する人が実践するものであり、その人々の価値観や思考法を現しているにすぎない。
文化が、遺伝子による延長された表現型だと考えるべきなのだ。
もちろん、個人は成長に応じて社会、あるいは他人の価値観を学習して取り込むので、
ある程度は文化的な決定要因もあるに違いない。
だから、行動の分散を環境的なものと、内因的なものにvariance decomposition分散分解する必要がある。

こういったことは僕のライフワークの一つなので、また気が向いたときにでも、
(平凡助教授が正しくもバカにしまくっている)紀要にでも書いてみようかとおもっている。

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もう一つは、Ron Paulの保守性についての「ええ」さんのコメントだ。


確かにPaulはキリスト教保守主義者であることは間違いないが、
一体、どんな思想も個人として同じように好む人などが地上にいるのだろうか?
小生でも、例えば、pro-choiceであるが、またfree sex movementに個人的に共感はしない。
その意味で、小生もまた単なる田舎ものなのだろう。


もし、すべての人がユニークな存在であることを前提とすれば、
個人的な善悪信念はどうであれ、政府による強制のみに反対すべきだろう。
Paul は実際に、自分と異なった考えにも、個人レベル、州レベルでの選択の自由を称揚し、
政府による私的な信念への介入、教育的な同化に対して断固として反対している。
だから、小生とは個人的な価値観が異なっていても、「自由」の旗の下に共感、尊敬できるのだ。