kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

Communitarianism

時々、小生の著作への批判に
「なんで、コミュニタリアニズムへの言及がないのか」
というものがある。


何でなのかといえば、まず第一に
小生があまり「自分の知的な風景の中に故郷の記憶がない」という
個人的な感覚がある。
小生の世界感と認識はすべて西洋の自然科学と啓蒙期以後の哲学に依拠していて、
鈴木大拙がなんといおうが、小生の知的な心象は大学移行急速に偏り、
今や日本的でも東洋的でもなく、単なる西洋人のそれと全く変わりがない。


もちろん理論的にもあまり同感していはいない。
そもそも共同体との一体化とは、どういった経済制度を意味するのか?
生産の分業が極度に進み、それなしには存立しえない現代社会で
職業生活に長い時間を割く現代人が
自己のアイデンティティを求めるような共同体など存在し得るのか?


おまけに、どうしてある地域の思想が同じなどという
宗教的な状態を肯定するのか?
理念は理解できるし、地域活動も理解しているが、
全人格的な没入となるとありえない話だ。
近代科学と分業の発展以前の発想なのだ。


イチローがコミュニティでいったい何をやるというのか?


とどめが政治的卓越主義だ。
これは、コミュニティが政治的な活動を通じて、
人間存在の意義をより高めることができるという宗教そのものだ。
政治活動が第一に重要だという考えも、ギリシャの時代じゃあるまいし、
現代社会では全くありえないし、そもそも政治など強盗行為そのものだ。
そもそも政治などがもっとも重要だというのは、
まさに政治哲学者の幻想そのものだ。


ヒトは共同体に完全には所属しなくても、
いろいろなことができるし、
いや、凡人と一緒のコミュニティには属さないからこそ
超人的なことができるのだ。
多くの人がSpiritual Couseling や Astrologyなどに多くの信頼を置いている中で、
近代科学が発達してきたのはコミュニティに没入していなかったからだろう。


サンデルやマッキンタイアに私淑する共同体主義者は、
モラリストとして単なる理念論以上の具体的な説明をする必要がある。
しかし、それが示されたことは一度もない、と小生は固く信じている。