kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

神経経済学は「政府」を肯定するのか?

以下の文章は小生が、今日知り合いの学者に送ったメールである。


ここに、はたして小生の下部科学的な意思決定のミクロ理論への探究と、
マクロ的なリバタリアンな思想が、整合的であり得るのか?
という疑問へのtentativeな考えを示してみました。
大変に長いのですが、読者諸兄も気が向いたら読んでみてください。



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XXXさま


あけましておめでとうございます。
賀状を大学で拝読いたしました。
昨年は、私の大学のような田舎にまで来ていただいたうえに
いろいろと心遣いをくださり、本当にありがとうございますm(__)m。


ただいま出先にて、賀状に代えて、
ちょっと内容のあるメールを勝手ながらお送りします。
これは先日某学者から指摘されたことなのですが、、、


その内容は、ズバリ(丸尾クン風にいって:笑)
行動経済学は、政府規制を肯定することにつながるのではないか?」
「おまえは、小さな国家と反対のことをやっているのではないか?」
というものですね(笑)。


これはある程度は言えていて、
例えば、昨年の日経新聞なんかには東大の松島さんが
行動経済学者は、自由な意思決定を信じていない」
というような文章を書いていますし、
おそらくはアメリカでもそういった風に主張する人も多いかと思います。


これは、伝統的な新古典派経済学は「個人の合理的意思決定」というものを
相当程度、神格化して、それを「実在的にも」、あるいは「規範的にも」
主張してきたところがあるからだと言えると思います。


シカゴ学派などの論法は、典型的に、
「個人の意思決定は定義によって、本人が望ましいと思っているものだ。
だから、それに干渉する政府規制は望ましい結果を生み出さない。」
というものです。
だから、この反対に行動経済学者の主張は、
「実際の意思決定はある種の矛盾を含んだ不合理なものである、
だから政府が規制をするパターナリズムは、少なくともある程度は肯定される」
というものが典型的になるかと理解しています。
これは、依存性の薬物などに顕著に見られるロジックの違いです。


さて、僕が個人の意思決定の生理学的基盤を探しているのは、
そもそも生物学と人間の行動科学を接合したいからであり、
新古典派を否定したいという目的からではないわけです。


人間が物理的な存在であり、進化的に発生してきた以上、
これまでの形而上学的な経済学は、どれだけか、その態度を改める必要があるはずです。
なぜ、経済学プロパーな学者の議論が「サイエンス」に載らないのかといえば、
おそらく、ほとんどの科学者は経済学の依拠する多くの前提に、
「心の底では」納得していないからでしょう。


これに対して Fehr, Sanfeyなどの学者は、Nature, Science, などの全般、
あるいはCriminology, physiology, その他の個別科学ジャーナルにも書いています。
それは、多くの科学者は、主観的に構築されてきたミクロ理論には興味がなくても、
チンパンジーやゴリラなどとも通底する、かつ感情も葛藤も持っている、
現実の人間の意思決定過程には興味があるからでしょう。


さて、意思決定が矛盾を含んでいて、完璧でないとしても、
だからといって、それが「政府の強制」を即座に肯定するわけではないはずです。
XXXさんには釈迦に説法ですが、クリスマスクラブ、エンゲージリング、
盛大な結婚式、大学に通うという儀式、
その他のコミットメントは人間社会で「政府による強制」なしで
十分に機能してきていますし、
僕はそういった自発的な規範や制度はこれからも機能すると楽観しています。


また、おそらくは、僕の考えでは、行動経済学、あるいは神経科学自体が
「なぜ我々は政治活動を、経済活動よりも高尚なものであると考える傾向を持つのか」
あるいは、「なぜ、我々は政治活動などの強制が必要だと考えるのか」
という問いについての、進化論的、生理学的な基盤を与えてくれるものだと思っています。
この意味で、僕の行動科学的な探求は、
無政府主義に対して合目的的なものでありえるわけです。


もちろん、すべてが僕の望む方向であるはずはないだろうし、
あるいは相当程度に僕が誤っているかもしれませんが、
どの道、僕が生きているうちに結論が出るようには思えないので、
気長に勉強していくつもりです。


予定では3月中に、またエッセイを出版献本いたしますので、
お忙しいこととは思いますが、ぜひともご笑覧ください。
というわけで、今後ともよろしくお付き合いお願いします。


蔵研也拝