ていうか、昨日のポストはあまりにも横道にそれてしまった(反省)。
経済学で「美しい理論」というのは、
「効用関数の形は同じなのに、
各個人が置かれた環境に応じて「合理的」に意思決定をすることによって、
結局は異なった行動を選択し、それが社会現象になってしまう」
というような論理構成のことをいう。
ここで、うまく数学的な理論を活用できるのが、
有能な理論経済学者なのだ。
これはこれで、なるほど美しいのだが、
審美主義的に過ぎるというのが、小生の感じる問題点なのだ。
効用関数の関数形といえば抽象的だが、
要は、たとえば音楽が好きか、スポーツが好きか、
あるいは勉強が好きか、とかいうようなものをいうわけである。
だから、そもそも個人差が実際にあるのなら、
それを前提にして理論をくむ方が自然だろう。
リスク回避にしても、明らかに人は違っている。
よく知られているところでは、D4DRのミニサテライトの回数によって、
ドーパミンのレセプターの発現頻度が変化して、
その結果、新奇性の追求(novelty seeking)の違いにつながるのだ。
ここで、極めてお気楽に日米の気質的な違いの一部が説明されてしまう。
(詳しくは慶応大学の大野裕さんet al. の研究を参照してください。
例えば http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9342200)
アメリカ人が新奇性を追求するのは、
そもそも白人が東アジア人よりも新奇性の追求度が高いことに加えて、
さらに多くが移民の子孫だからだろう。
そうすると、別に経済学や社会学的なゴタゴタした理論なんていらなくて、
「なぜ日本のベンチャービジネスは少ないのか」という
極めて経済学的な問いに、あっさりと答えられてしまうということになる。
別に青木昌彦さんの小難しいゲーム理論的なAJ均衡分析など、
そもそもまったく必要なくなってしまう。
これは社会科学者からすると、なるほど美しい経済理論ではないが、
小生の見るところでは、最も説得力が高いのである。