slumlordさんのLJPでのpost
http://c4lj.com/archives/418176.html
で思い出したので、ジョージ・メイソン大学のBryan Caplanの「私はなぜオーストリア学派ではないのか?」を読んでみた。あるいは昔読んだようにも思ったが、とにかく昨日読んだので、ここで思ったことを書きたくなった。(以下かなりテクニカルですいません。)
基本的に僕の立場はほとんどCaplanと同じで、「オーストリア学派には見るべきものはあるものの、経済科学の理解については、新古典派経済学をほとんど全面的に肯定して、オーストリア学派は、学派というよりは、研究課題がわずかに違うだけだ」というものだ。
例えば、無差別曲線からの効用関数の導出、Von Neumannによる期待効用仮説に伴なう効用関数へのcardinalityの導出などは、現在の大学院で教育を受けた人間なら納得していると思う。この点、ミーゼスやロスバードの批判はほとんどが単純な誤解に基づいている。
しかし、そういった細かい話よりも、僕はむしろ、オーストリア学派とは、「政府よりも市場を信じる」という社会哲学(あるいは価値観、宗教?)なのだという方が納得できると考えている。例えば、ロスバードは、典型的に、「政府の活動は、自発的でない以上、定義によって非効率だ」というような命題を好むようだが、僕はこれでは批判者に対して説得的ではないように感じる。
僕がD.フリードマンの著作からより圧倒的な影響をうけているのは、フリードマンの考え方が、少なくても可能性としては政府活動の有用性、効率性を否定していないからだ。(僕がここで勝手につくりだす)フリードマン的な文章例としては、「ある場合には政府があったほうが効率的かもしれない。例えば、極めて大きな取引費用などの存在によって、政府の存在が、市場による自発的な取り決めでは達成できないことを可能にするかもしれないからだ」といった風なものがあるだろう。もちろん、オチは「そういう場合は稀であり、その他の害悪を考慮すると、結論として政府は必要ない」というものだが。
さて、まさにほとんどすべての経済学者がanarcho-capitalismを支持しないのは、「政府のほうが、効率的に公共財問題などを解くことができる、と信じている」という理由による。この結論には賛成しないが、そういった議論をするべきだということには、完全に納得している。
こういった言い方は、はなから理論を否定するというよりは、経験主義的、あるいは実証主義的に考えてみよう、という態度を表している。つまるところ、現実が理屈に合わないのなら、理屈のどこかが間違っていると考えなおすべきで、現実を見直すべきだということにはならないだろう。
とはいえ、オーストリア学派の中でも、例えばカーズナーの論文なんか
http://en.wikipedia.org/wiki/Israel_Kirzner
は、とても素晴らしいものをふくんでいると思っている。それは均衡分析しか目指さなくなった新古典派経済学を、もっと均衡点への過程における厚生分析を重視するべきことを教えてくれるからだ。
同時に、こういった主張ももっと計量的にやっていかなければならないとは、思っている。計量性、あるいは数値性を否定してしまえば、例えば、どの程度の独占状態が動学的に望ましいのかについて判断できない。結局、理念上の対立以外には話すことがなくなってしまう。例えば、アントレプレナーやミュージシャンへの報酬などは、どの程度が効率的(正義ではなくて)なのか、などは何の数値的な基準もなければ、現状のままの単なる言い争いに終わってしまう。
というわけで、オーストリアンはもっと主流派に入り込んで、市場の効率性や政府の非効率性、といった問題意識を数値化するべきだというのが、僕の意見であり、Caplanの意見でもあるのだと思う。僕も主流派経済学の教育しか受けたことがないが、日本の経済学会ではオーストリア学派を知る学者は、ほとんどまったくいない。もう少し、経済学の内部でも問題意識が共有されればいいとは思っているのだが、、、