kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

「愛」の実在性について

今日はかつての同僚の教えてくれた名古屋駅前の、
麻布に本店のあるイタリア料理屋にいってきた。
このビルにはトヨタの広報部があって、
おそらく東海地方では一番活気があるビルの一つだ。


帰国して間もない、あれは12年前のこと。
彼ともう一人の経済学者と話していて、
つい熱くなってしまった会話がある。


連続関数を好む経済学者は、「愛」というdiscreteな概念を
いぶかしく感じているのが普通だろう。
少なくても、Becker以来の経済学ではそのはずだ。


小生は経済学者である以前に、
徹底的な唯物的進化論者なのだが、
「愛は存在するのか」についての話になると、
その時、小生は「愛は実在し、それはdiscreteに、
相手への性的な魅力を感じた結果としての評価の感覚だ」と主張した。
それはちょうど、「雷は電子の移動にすぎないが、それは確かに実在する」
といったようなものだ。
事実、恐怖や愛はその対象の実体の如何にかかわらず実在する。


それは愛についても同じで、愛が果たす局所的、
究極的な役割がどうであろうと、
われわれの心の中には実感として実在する。
だが、これは「愛」という感情の、
人知を超えた神秘性を信じたい人には納得できないこともよくわかる。
つまるところ、人々は、愛や友情、その他の「人間的」なものを
説明を超えた超然とした存在であるとしたいのだろう。
そうした方が、それらのものが神秘的で価値が高まりそうなのだ。
そのため、説明を与えたとたんに、
そのものの価値がなくなるような感覚を受けるのだろう。


小生も、実感として、この感覚は理解する。
よって、感覚と理性には緊張関係があることは認めなければならない。


だが、どうだろう、無自覚で超自然的な感情よりは、
理性によって理解された感情の方が望ましいというのは、
人文主義の反対に位置するのだろうか?



例えば、人文主義の弊害の一つが、過剰な民族主義であるとするなら、
小生はやはり民族主義者でありたいとは思わないが、、、、