kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

合理的機能主義とはいうものの

昔々、大学時代の小生はいわばガチガチの機能主義者だった。
建築でいえば、バウハウスなどの虚飾を排したやつである。


しかし、大学を卒業して以降は、
ダンダンと自然が機能的でないことを、よーーーく理解して、
なるほど裸の機能主義とは一つの信仰なのだと思うに至っている。


以前にD.フリードマン
「なぜ、虚飾を排した大学は存在しないのか?」
という疑問をポストしていたのを読んで、
小生は
「それは、一般人にとっての虚飾とは、
つまりcommitmentとしてのサンクコストであり、
もっとも簡単な情報伝達手段であるからだ」
という結論を直感した。
建物や施設はボロいのだが、いい教授を迎えている大学というのは、
「学術という概念が、一般の人にとっては はっきりしない」ために
残念ながら存在しないのだ。


同じように、すべての銀行は、それなりの門構えを持とうとする。
西洋ではドーリア式の神殿建築であり、日銀はバロック風だ。
それはつまり、
「われわれはサンクコストをこんなにも払っているのだから
決して、近いうちには逃げ出しませんよ」というメッセージなのだ。


同じように、小生はBMWのファンなのだが、
余計な接客のないBMWのディラーに行きたいと考えている。
しかし、そんなものは存在しない。
なぜなら、BMWやLEXUSを望むような人の多くは
クルマの動的な良し悪しはあまり分からないが、
しかし最高のサービスは望んでいるからだ。


これはオナガドリの尾の長さや、アズマヤドリのあずまやの立派さと同じだ。
つまり、人間は不断に自分の資質についてメッセージを送る必要があるのだ。


マスカラとビューラーをあやつる女性たちを、
共産的、合理主義者は馬鹿にするかもしれないが、
しかし、彼らは彼らで熾烈な男性獲得競争の心理の産物なのだ。


機能主義とは、昔考えたほど簡単な概念ではないらしい。
つまるところ、虚飾自体にも合理性が内在していている。
あるいはハイエク的な意味で、機能性を語ること自体が
知的驕慢なのかもしれない。