新古典派のミクロ経済学を学ぶと、完全競争市場という概念が出てくる。
これは売り手、買い手ともに価格支配力を持たない場合に、
市場の価格と数量は社会的な余剰を最大化するというものだ。
よって、市場が独占であったり、寡占であったりする場合には
それらの企業が価格支配力を持って、利益をえることになる。
これは望ましくないということから、独占禁止法が要請されるのである。
これはどんな価格理論の教科書にも書いてある論理だ。
これはこれで論理としては理解できるのだが、
このような完全市場の達成は望ましいのかどうかは、
不断に新製品や技術革新が起こっている現実の経済では、
疑わしい。
現実の市場では常に技術革新を誰かアントレプレナーが起こしており、
かれはその技術的な優位性のために超過利益をどれだけか得ることになる。
これが望ましくないというのが独占禁止法の理念だ。
だが、そういった超過利益がなければ誰も技術革新を起こそうとする
インセンティブをもたなくなるだろう。
とすれば、Joan Robinson の分析以来、
「市場の失敗」をされることも多いこの問題は、
実は経済を動学的にとらえると「失敗」ではないといえるだろう。
言い換えれば、独占の問題を語る経済学者は「静学的に」経済を分析している。
動学的なインセンティブまで考えれば、あるいは独占利益が大きい方が大きな成長を実現し、
かえって(将来割引を計算したのちでも)より望ましいことも十分に考えられるだろう。
こういう考えがオーストリア学派の経済観なのだ。
スタンダードなミクロ経済学とは、
市場が人間に与える長期の効果を重視するという点で大きく異なる。
イズラエル・カーズナーはこの起業家精神の重要性を説得的に論じている。
独占禁止法の持つ長期の悪影響についてはよくよく警戒する必要がある。