kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

監視カメラ

今日は帰り道にクルマでラジオを聴いていたら、
有名な正しくも左翼的な斉藤貴男さんが話していた。
彼の著作は昔から好きだが、持っているのは
名作(だと思っている)「カルト資本主義」だけである。


話題は「監視カメラの是非」である。
彼は、警察の冤罪事件の取材から
正しくも、警察は信用できなくはないが、
全面的に信頼するのはいかがなものか、
というスタンスである。


監視カメラの運用が、現実には警察に一元化しており、
さらに、将来的にはデータベースで各人の行動が
逐一記録、蓄積、利用される状況を憂いているのだった。


おもしろいはの、NHKラジオのリスナーは
おおまかにいって、監視カメラ賛成派であることだ。
これは、民主主義は多数者の支配であり、
NHKリスナーは常識派であり、良識派であることを考えれば、
当然だろう。
表現の自由や良心の自由の価値は、
多数派にはつねに理解されないだろうからだ。
斉藤貴男さんのような人は
普通の良識派のメンタリティをあまり理解していないのだろう。


さて、私は監視カメラは、私有地においてのみ許されるという
通常のリバタリアンの立場をとる。
どのみち、将来の社会には多くの個人データベースが存在し、
逐一個人情報を集積していくだろう。


重要なのは、そんな当然のことではなくて、
データベースが一元化されて、信用性も一元化されるかどうかだけだ。
警察のデータベースはおそらく、将来の捜査では一元的な価値と
信用性を陪審から与えられるだろう。それだけが問題なのだ。


よって、やはり警察も民営化して、複数の組織で競い合う必要がある。
現状では、情報の改ざんが起こっても、誰もそれを訂正できないし、
個別情報の信頼性への反証もできない。


斉藤さんは、民間企業がGPSで位置を確認してターゲッティングして
広告メールを送ってくるのが問題だといっていた。
この手の問題意識は社会学者のそれであり、マスコミのそれだ。
しかし、実際には、そんなことは単なる広告の進化であり、
なにの問題でもない。


強制力をもつ政府が集める情報だけが問題なのだ。