kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

あるリベラル的なメール

今日 以下のような自称リベラル的な私さんからのメールいただいたので、
ちょっとリバタリンとしての私の小さな反論を少し。


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リバタリアン宣言、興味深く拝読致しました。
私は、どちらかといえば、リベラル的なことに相性が良いタイプです。リベラル的は
私の感想を書いてみました。御笑覧頂ければ幸いです。


一つめの論点は、結果の平等と機会の平等の問題です。リベラル派といえども、結果
の平等はそれほど主張していないと思います。広い家にすんだり、ベンツに乗ること
はけしからん、との主張するリベラリストはいるのでしょうか? リベラル派はあく
まで、機会の平等、をどこまでの範囲で担保するべきか、で議論をしているといった
感じです。リバタリアン宣言 で先生が主張さていれる平等主義に対する批判は結果
の平等主義への批判なのではないのかな、と感じました。


もう一つの論点は、セーフティーネットが国家の介入無くして担保されるか、といっ
た問題です。セーフティーネットは、治安、の問題と関連します。治安の悪化しない
程度の、セーフティーネット、は夜警国家としても必要なのではないでしょうか? 
警備の強化よりもある程度のセーフティーネットの強化の方が、治安維持のために、
コスト的にも有利である可能性もあるのでは、と思います。(特に、日本で、バブル
の時期、そして、経済状態が改善してきた近頃、個人の寄付、増えたのでしょうか?
 アメリカとは税制も違うようですが、残念ながら日本には個人のdonationの伝統は
ないようです。)


全体を通して、一番気になったことは、先生が主張される、自由、がかなり特殊な自
由なのではないかな、といったことです。先生が本書で語られた「自由」は、個人が
自己責任においてお金を払うことを決定する自由、に限定されている印象です。消費
する単位、演算因子として、人間とその自由を定義されているのでしょうか? 私が
感じる 人間と自由、はもう少し広い概念のような気がします。


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まず、結果の平等について。
僕の『宣言』は、ご指摘に正しくも、思想的なstrawmanとしてロールズの正義の理論を
念頭においています。そこでは彼は、完全な結果の平等を論じています。
おそらく、多くのリベラリストは、そこまで極端ではなく、結果の平等は担保しなくても、
機会の平等は担保すべきだというのでしょう。そして、リベラルの多くは、
この機会の平等という考えにおいて、教育機会の平等=公営化を主張します。


僕のこれに対する考えは、教育機会の平等を意図して国家による制度を肥大化させると、
逆説的に、機会は不平等になり、費用は増大するというものです。
それは例えば、公務員による教育が望ましいと多くの親が望まなくなっていることを意味します。
解雇可能性のない公務員教師が、やる気のない生徒への対応に追われるている状態よりは、
一般の塾のような民間企業に雇われる教師によって、やる気のある生徒、
あるいは一人一人の顧客たる生徒にもっと時間を割いてほしいと思うのは、
僕だけでしょうか。


セーフティネットについて。
治安の問題とおっしゃるが、どこまでやれば、治安がどの程度よくなるのかが問題です。
日本の警察予算は一人当たり年間3000円で、これは民営化すれば、1500円の価値です。
治安の安定を求める人は、この1500円に加えて警察費用をさらに払うべきか、
あるいはセーフティネットとして、福祉費用を充実するべきなのでしょうか?
僕にはどうしても福祉費用が「治安維持」のために役立つとは思えません。


ちなみにアメリカの西部開拓時代が、政府支配はなく、当然社会保障もなかったが、
それなりに秩序と希望にあふれていたことは指摘しておきたいです。
大草原の小さな家」に描かれたような、個人的な幸福を追求できる社会には
他人が作ったものを、当然に分け与えてもらえるという感覚はなかったはずです。


また日本人の寄付が少ないのは現実には伝統ですが、それはまた、
我われが政治家という強盗団の統領たちをあがめすぎていて、
毎日逐一彼らの行動から言動まで報道することにも起因すると思います。
例えば、我われ自身が納税先とその使途を決めることができれば、
あるいは、同時に寄付をする人間の意義をもっと賞賛するようになれば、
あるいは政治活動がそもそも強盗行為でしかないことを理解すれば
少しはましになるのではないでしょうか。


最後に僕の人間観について。
たしかにリバタリアンの自由は消極的なもののみを含み、
消費のような活動しか含まないように感じられたかもしれません。
これは僕の筆力のなさのためでしょう、すいませんでした。


僕の考える人間もまた単に消費主体、社会と無関係な個人、と
いったものではなく、もっと他人や社会全般、その他の常識から
影響を受けてしまう、かつ影響を与える社会的な存在です。
これはいうならば、ミクロ・マクロ リレーションの問題ともいえるでしょう。


人間が社会的な存在であるからといって、
国家という強制力を持つ集団が僕の行動を奪ってよいということには
ならないと思います。
リバタリアンはお互いに無関係な個人の集まる活気のない社会を
提示しているのではなく、その逆に、国家によって強制的されないすべての宗教、世界観、
人間の交友、活動を全面的に称揚する、つまり活気のありすぎるような社会を想像します。
つめたい非人間的な側面とは、むしろ、権力者や公務員の持つ側面であり、
真の対等な人間関係ではお互いを公務員よりも、人間的に扱うものだと確信します。


以上、述べたことが少しでも説得力があったでしょうか。
この返事が貴君をリバタリアンな意見に近づけてくれることを願います。
蔵研也拝