The Problem of Political Authority: An Examination of the Right to Coerce and the Duty to Obey
- 作者: Michael Huemer
- 出版社/メーカー: Palgrave Macmillan
- 発売日: 2012/12/11
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今日読んだ友人からのメールの中に、「リバタリアンは皮肉な文章を書く、あるいは好んで読む」という一節があった。僕は、なるほどその通り、と感じた。
少なくとも、現状では、リバタリンはトンデモなくおかしな考えなので、1,そこにたどり着き、2,直感的に否定せず、よく考えてみて、3,さらに納得する、なんてのは、当然相当な批判精神がないと、ありえないことだろうと思っている。
さてHuemerがスゴいと感じるのは、この人があまりにも人格的にストレートでマトモなこと!
ロスバードのような行き過ぎた熱意も、フリードマンJr.のような皮肉もなく、気が抜けるくらいに、素直に常識と論理のみによってanarcho-capitalismを説明しているのだ、、、
常識、というのは、1、個人の精神、行動の自由、2,所有権、の2つだけ。これらを敷衍していくと、どうしても暴力装置である「政府」は否定されてしまう、ということを懇切丁寧に、説得を試みている。
少なくとも、アメリカのリバタリアニズムは成熟した思想になった。だからこそ、普通感覚の知識人がそれに納得できるということなのだろう。
残念なことは、人間には所有権や自由権と同じ程に「国家の権威」を信じる道徳的な直感がある(間違いなく進化論的に)。だから、自由と所有によって国家権威をoverrideしようとする論理は、結局は、普通の人には説得的には響かない。自由権と所有権は、所詮は参政権や平等権と同格でしかない、という政治道徳的な直感というべきか。思えば僕も、「国家の権威」というものを完全に否定するのには30年もかかってしまった、、、)
とはいっても、そう捨てたもんでもないだろう。
僕がフィルマーやボダンの王権神授説を読むたび(僕は世界史の問題をつくっていることが大分多いので、今も時々昔の物を読み続けてます)、この人達は当時の知識人には大人気だったのだが、どうしても今の僕にはマトモに思われないという事実。
僕がフクヤマとかロールズ読んでも、なんかクダラナイな〜〜、と感じているのも、まさに彼らは現代のフィルマーではないか? → 現代の民主主義福祉国家という常識を裏打ちしているだけだろ、と思っているからだ。
Huemerが言うように、500年後はわからんだろう、あるいは世界の所々にsporadicではあっても、anarcho-capitalismが存在しているんじゃないか。
その時、ロールズはマルクスとそんなに違うように感じられるんだろか? 僕はボシュエよりもスピノザでありたい。
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