kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

変えられるものと変えられないもの

いつも感じていることだが、ある社会制度がどの程度成功するのか、という問題を考えるとき、僕は常に人間の「自然状態」から考えてみる。ここでいう、自然状態とは、まあエントロピー的にもっとも安定的だ、という程度に感じてもらいたい。例えば、気温が20度で、90度のお茶は20度まで冷えていくだろう、といった感じ。


で、まず財の配分を政府が決定する制度(例えば共産主義)は、ダメダメで問題にならない。生産とそのプロセス改善のインセンティブが、個人の利益とcompatibleではないからだ。これを信じないためには、トロツキーのようにお気楽に、「教育によって、人間は公共の目的のために全身全霊を持って働くだろう」というような発想が必要だ。(道理で、日教組には共産主義車が多かったわけだ。)こんなことは、生物の40億年の進化に反していて、とんでもなくありそうもない。これは「変えられないもの」だ。



とはいえ、財の生産、分配をすべて市場に任せるというのも、またメンタルには安定的ではないように思う。おそらく財は市場で生産し、それを王制の政治活動が歪めるという程度が、自然なようだ。なにせ、男の心には、(僕の少年時代も含めて)「敵を倒す」というゼロサムゲームの思考が、自然に受け入れられるような神経回路があるようだからだ。同時に、美徳の王が敵との戦いの指導者であることが当然に望ましい。


この点、民主主義は、それほど自然ではないように思われる。おそらく、現代の常識を作り出している西洋諸国が民主主義でなければ、強制された日本を含めて、ほとんどの政治体制は王制を維持したのではないのだろうか。


さて、そうすると、人間の利己性も友愛もリバタリアニズムは包含している点で、それなりにエントロピーが低いとは言えるが、しかし、王制、他民族へのよそ者嫌い、政治活動の「美徳」における商業活動に対する優越性、などに鑑みると、王制、あるいは民主主義福祉国家に比べるとエントロピーが高く、実現が難しい制度であるように思う。


これこそ僕がリバタリアニズムのチャレンジだと感じる点だ。果たして、ごく普通の常識人が、政治活動の領域を狭めて、商工業活動の自由を優先するというような価値観を持ち、それこそが我々の福祉を増大させる道だという世界観を持ち得るのか?


難しいことは間違いない。しかし300年の歴史の中で、民主主義は専制政治に勝利したが、これとて、あまり自然なものでもなかろう。円滑な部族間戦争を遂行するためだろう、順位性は男の心性に深く根ざしているように思われるからだ。


こういった思想変更がまったく無理だと僕が考えているのなら、リバタリアニズムユートピア思想だということになる。そうであるなら、フランシス・フクヤマのいうように、歴史は終わったのだ。その場合、僕はリバタリアニズムなどというムダなことは一切合切停止して、自分のもつその他の価値感、例えばヒト社会行動の自然的基礎、あるいはヒトの歴史や社会活動の自然科学的説明、、さらには僕の子供へのサービス、などに時間の全てを注力するべきことになる。


しかし、無理ということもないだろう。単なる希望もあるが、そう考えるからこそ僕自身もLJP諸兄もリバタリアニズムに時間を潰しているのだ。政治思想と体制は「変えられるもの」であると信じたい。