さて、今日職場に向かうクルマでいつもの渋滞。そこで昨日の内容を補足したいと思ったので、一筆献上。
定義によって、効用関数というのは、個体の感じる「快」なので、個人をベースにした議論になる。そこでの価値は、純粋に個人から 主観的に構成することができる。
これに対して、進化論での利益 = fitness 適応価 というのは、純粋な個体に帰属するというよりも、ある個体にたまたま集ったDNAの長期的な繁殖(長期的な交配行列の固有値にでもモデル化されるだろう)についての議論だ。これは、相当程度に客観的であり、かつ有性生殖の場合、必ず配偶個体や、その集団という「社会」を必要とすることになってしまう。
さて、個体が悲惨な晩年を迎える特殊な遺伝病遺伝子であっても、(例えば代謝効率を高めたりして)子供の数を増やすのであれば、それは適応化を上げることになる。だから、生まれる以前の無知のヴェールの陰で選ぶことができるなら、ほとんどの人は、たとえ、より多くの子供が残せるとしても、ティ・サックス病などの遺伝子を持たないこと個体として選ぶだろう。
主観的には忌避される事態が、客観的には増殖することがある、という矛盾。
というわけで、僕の現時点での理解では、主観主義の経済学(これは主流の経済学を含む)が、ほとんどの自然科学者にとって哲学の域を出ていないと感じられるのは、それが客観的な適応価と乖離することが多いことにある。
そういった実例についても、具体的に、もう少し考えてみたい。