こんにちは。
前に、道徳哲学には直感的な義務論と、それに(比較的に対立している)功利主義がある話をしました。それから徳倫理学という考えもあります。
で、功利主義を信奉するボクの感覚からして、徳倫理学がなぜ気に入らないかを少し。
功利主義が最終的に合意するのは、「快楽」、「快適」あるいは「幸福」、「幸せ」、なんと定義しても良いけれども、とにかく「気分が良い」という状態です。これは誰の目にも明らかであり、また感覚の中でも原始的なものであり、普遍的であることも疑いありません。
反対に、徳倫理学が重視するのは、人として望ましい生き方、行動様式, virtuous behaviorです。これは本質的に曖昧なものであり、それについての意見が一致するとは到底思えません。そうしたことは、ほとんど中学生になる頃には明らかだと思いわれます。ポリスの生き方についてのニコマコス倫理学も、単なる老人崇拝を説く論語も完全にクソです。まったく普遍化できる感じがしない。
さて、にもかかわらず道徳哲学者と名乗る人たちの多くは、徳倫理学をマトモに議論しています。その態度が理解できない。なぜって、彼らはどこかに完全なる徳目を体現するような行為・生き方が存在し得るという確信にもとづいて議論しているからです。つまり道徳カルトなのです。
マッキンタイアもサンデルも、道徳的ではない人格への侮蔑を持ちつつも、論理的な破綻を回避するために、「では、どのような行為が徳に適っているのか?」という問いには、まったく答えないという偽善。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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具体性についてはノラリクラリとはぐらかしながら、「それでも自分はイデアとしての徳倫理の実在を信じている!」と自らの道徳性の高さをこっそりと自慢する。そういった独善性が鼻につきます。
いわば、自らの高潔さを自慢しつつ、自民党に所属しつづける政治家のような精神性といえば、よくわかってもらえるでしょうか。つまるところ、彼らは真理を追求する学者でありたいのではなくて、学会の中で自らの道徳性の高さを自己顕示をしたいだけなのではないかと訝ります。
結局、(たしかに残念な感覚は残りますが)、我々には共通・普遍の道徳は存在しないし、進化論理的にもそれは存在し得ない。それを真正面から認めた上で、共通の基盤としての、相互共存を図るには功利主義しかありません。
この事実を認めない現代の徳倫理主義者とは、アッラーやキリスト、コーランや聖書を信じる宗教とは異なっても、やはり別の形の(人徳)カルトなのです。
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