こんにちは。
先日 紹介した「ラディカル・マーケット」のまた別の章では、投票権を一人一票から改めて、特定の問題などへの傾斜配分を許すべきだと主張されている。Quadratic Voting(QV)とは、例えば持ち点が10点であるなら、その9点分を投票すれば1点分の3倍、4点分を投票すれば2倍の重みがつくというものだ。
(ちなみに僕の感覚では、この命名はかなり変な気がする。英語ではQuadratic functionと聞けば2次関数をイメージするので、3点を投票すると9倍の重みがつくような響きがある。しかし、おそらくSquare root votingなんかよりも響きが良いと著者たちが思ったんだろう。
ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀: 公正な社会への資本主義と民主主義改革
- 作者:エリック・A・ポズナー,E・グレン・ワイル
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2019/12/20
- メディア: 単行本
本書の例をあげれば、日本で銃規制を望まない個人が少数でも、大きな重み付け投票を入れるなら、銃規制は撤廃される可能性がある。少数者が多数者よりもはるかに大きな関心を持っていることには、単純な多数決原理が当てはまらなくなる。
もちろん日本での銃規制の撤廃なんてのはもっとも起こりそうもないことだが、例えば尊厳自殺・安楽死を認める権利なんてのは、今は多数決原理で禁止されているが、QVでは認められそうでもある。反対する多数者は実は当事者ではない場合がほとんど、なんとなく反対している反面、賛成している人間はよっぽど真剣に望んでいるだろうからだ。
ところで、この投票分の重み付けがルートされるべき理由はなんだろうか? その基礎には、市場原理を修正するために1単位を変更した場合には、その死荷重が2乗倍で発生するという厚生経済学の分析がある。(市場で実現されなくなる厚生量は、面積なので、引き上げた単位の2乗に比例するというわけだ。)ということで、市場に政治的な変更をもたらす程度は、各自が投票によって失う持ち点をルートしたものであるべきだという論理になる。
ここは納得するとしよう。さて、投票制度に持ち点を導入するのはどうか?
そもそも一人一票という普通選挙制度には、観念的な平等性はあるが、深い論理的あるいは哲学的な理由はない。単純多数決は、多分思想的な流れで確立してきた政治的な実践なのだろうから。
リバタリアンは、市場への政治的な介入を好まないので、こうした変更にも反対するのかもしれない。ボク的には試して見る勝ちはあるのかなと感じる。そもそも普通選挙制度にしても、その成立過程でイギリスでもフランスでも、ほとんどのエリートは衆愚政治になるだろうと反対してきた。それでも、普通選挙は機能してきたし、制限選挙制度をとる国よりも悪い政治状況であるようにも見えない。
普通選挙制度がうまく機能していないという認識は多くの人間がもっている。誰か賢者による独裁に行くのもありかもしれないが、まずは、投票券を持ち点にしてみるというのもありのように思う。
アジア人は近代社会制度に、まったく何の貢献もしてきていない。啓蒙の政治思想にしても、民主主義や選挙の実践にしても、良いものを実験したりもたらしたりしていない。フランス革命は良いものも大量にもたらしたが、ワケのわからないもの・残酷な状況ももたらした。日本の閉塞感は今ハンパないわけだから、一回ぐらいはなにか試してみてもよいのではないのか??
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