kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

法 La Loi, the law by Frederic Bastiat

「法」の訳出に取り組んできましたが、今日ついに下訳が終わったのを勝手に記念して、upします。(まだいろいろと原注、訳注なんかが足りないのですが、ちょっと疲れてきたので、これはちょっとばかり休憩することにします、すいません)かなり長いので、印刷して読むことを勧めます。

 

あと、「正義」の概念も、前のポストのように、おそらく多くの現代人は納得しないでしょう。よろしく

 

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http://bastiat.org

Frédéric Bastiat, The Collected Works of Frédéric Bastiat. Vol. 2: The Law, The State, and Other Political Writings, 1843-1850 [2012]

 

https://oll.libertyfund.org/titles/bastiat-the-collected-works-of-frederic-bastiat-vol-2-the-law-the-state-and-other-political-writings-1843-1850

(Jane Willems and Michel Willems 英訳)を主な底翻訳とした。

 

他に参考にした英語訳は

https://mises.org/sites/default/files/thelaw.pdf

http://bastiat.org/en/the_law.html#footnoteref2

およびフランス語原文

http://bastiat.org/fr/la_loi.html である。

 

 

 

 法が濫用されている! 国家のすべての集団的な力とともに、法は本来の目的からそれているだけでなく、完全に反対の目的に向かっている! 法は、あらゆる種類の欲望を止めるのではなく、それらに仕える道具となっている! 法は、本来自らが罰すべき悪そのものになっている! もしこれが本当なら、それは由々しき事態であり、私は同胞諸君にそのことを気付かせる義務を負う。

 

我々は神から、すべてを包摂した贈り物を与えられた。それは命、つまり物質的、知的、そして道徳的な命である。

 

しかし命はそれだけでは存続しえない。創造主は、その維持、発展、そして改善する責任を我々に委ねた。

 

その実現のため、主は一連の驚くべき能力を我々に与えた。そして主は、多様な自然要素のただ中に我々をおいたのである。我々の能力でこれらの要素を活用することで、それらを取り込み、利用できるようになる。命を全うするためのプロセスである。

 

存在、能力、活用。つまり身体、自由、財産こそが人間である。政治家の扇動的な発言はさておき、これら3つは人為的な立法に先立ち、優越している。

 

身体、自由、財産は、人が法律をつくったから存在するのではない。その反対に、身体、自由、財産が存在するからこそ、人間が法をつくったのである

 

では、法とはなにか? 以前述べたように、それは個人の権利を法的に擁護するために、集合的な組織をつくることである。

 

我々一人ひとりは、当然のこととして、自分の身体、自由、財産を守るために神から与えられた自然権を持っている。これらは我々の生命を構成し、維持する3つの要素であり、相互に不可分である。なぜなら、身体に由来しない能力とはどのようなものであり、能力の発現ではない財産とは、一体どのようなものなのだろうか? 

 

もし各個人が、身体、自由、財産を、実力をもって擁護する権利を持つのなら、複数の人は集合して合意し、その権利を合法的に守るために、恒常的な共同の実力を組織して維持する権利を持つ。

 

よって集団的な権利の原則、その存在理由と合法性は、個人の権利に基づく。集団の実力は、代理権が付与された個人的な力をこえた、いかなる目的や使命を持つことはできない。

 

こうして個人的なレベルの力は、合法的に他人の身体、自由、財産に対して実力を行使することはできないため、同じ理由から、その実力は合法的に他の集団の身体、自由、財産を侵すことはできない。

 

なぜなら、両方の場合において、そうした力の濫用は、最初の前提と矛盾しているからである。実力は自分の個人的な権利を守るために与えられたのではなく、同胞の権利を奪い去るために与えられたなどと言うものがいるだろうか? 個々的にはどの個人も、他人の権利を侵すために実力を行使することは許されない。個々的な実力を組織的に合わせたものにすぎない共同の実力に対しては、同じ原則は当てはまらないのだろうか? 

 

もしそうなら、次のことは直ちに明らかとなる。法とは、自然権の正当な擁護を、組織化したものである。それは個人の実力を、共通の実力で置き換えたものだ。そしてこの共同の実力の行使が許されるのは、個人の実力が自然権として行える範囲内でしかない。それは身体、自由、財産を保護すること、各人の権利を守ること、我々全員に正義をもたらすことである。

 

もしこの基礎づけによって人びとが国をつくるなら、行動だけでなく、思想にも秩序がもたらされるように思われる。そうした国の政府はどのような政治形態であれ、考えられる中でもっとも単純で、受け入れられやすく、経済的に無駄なく、肥大化せず、被抑圧的で、公正、盤石なものであるだろう。

 

なぜならそうした政治体制では、各人は、その存在の喜びと同じように責任も請け負っていることを十分に理解するはずだからだ。身体が守られ、労働する自由があり、労働の果実が不正な侵害から守られるなら、政府との間に議論が生じる理由は存在しない。幸せであるなら、成功したことを国に感謝する必要はない。反対に幸せではないときは、その不幸について国を責めることはできない。それは農夫が、ヒョウや霜について政府を責めないのと同じである。我々が国の存在を感じるのは、安全という計り知れない恩恵を通じてのみであることになる。

 

さらには、国が私的なことがらに干渉しないおかげで、我々の欲求とその充足は自然な方法で実現する。貧しい家族がパンを得る前に、読み書きを学ぶようなことにはならない。農村の犠牲の上に都市人口が成長することも、反対に都市の犠牲に農村が成長することもない。法的な決定によって、資本や労働、人口が大規模に移動することもない。我々の生活の糧は、こうした大規模な移動によって不確実、不安定なものになっており、それによって政府の責任はさらに大きなものになってしまう。

 

しかし不幸なことに、法はそうした適切な機能に留まってはいない。法は、単に中立的で議論の余地のあるような意見にしたがって、適切な機能をこえているというのではない。法はそうした状況をはるかにこえて、本来の目的に対して正反対の働きをして、その本来の目的の破壊している。本来守るべき正義を抹殺し、守るべき各種の権利の境界を消滅させてきた。法は、他人の身体、自由、財産を収奪しようとする人びとに対して、集団の力を行使することを許してきた。略奪を守るためにそれを権利へと、正当な擁護活動を罰するためにそれを犯罪へと変えてきた。

 

こうした法の濫用はどうやって実現したのか? そしてその結果は何なのか?

 

法の濫用は、2つのまったく異なった理由からの影響によって生じた。愚かなる身勝手と偽りの人道主義である。

 

最初のものから述べよう。

 

自己保全と自己発展はすべての人にとって共通の願望である。それによって、もし個人の能力が制約なく発揮され、その労働の果実を自由に処分できるのであれば、社会の進歩は恒常的で、途絶えることも、尽きることもないだろう。

 

しかし人びとには、共通するもう1つの傾向も存在する。もしできるなら他人の犠牲のもとで生き、栄えたいと願うことだ。これは決して辛辣で悲観的な精神による、思いつきの批難ではない。それが真実であることは歴史年代記が証明している。絶え間ない戦争、集団移民、宗教的な迫害、奴隷制度の遍在、詐欺的な商業活動や独占などで埋め尽くされているのである。

 

これらの悲惨な傾向は、まさに人間の本性に起源がある。原始的で、普遍的、克服し難い本能によって、健康を求め、苦痛を逃れようとするのである。

 

人が生きて人生を送るためには、自身を活用して自然を取り込むこと、つまり、自然の要素に対して能力を絶え間なく活用して働くしかない。これが財産である。

 

しかし実際には、生きて人生を送るためには、他人の労働の果実を取り込み、活用することもできる。これが略奪である。

 

さてここで、労働は自体で苦痛であり、人は苦痛から逃れようとする自然な傾向を持つ。そのため、労働よりも略奪のほうが容易である場合には常に、人は略奪をすることになる。歴史はこのことを明確に示している。このことは、宗教にも道徳にも止めることはできない。

 

それでは、いつ略奪は収まるのか? それは労働よりも略奪のほうが苦痛が多くなり、もっと危険になったときである。

 

よ明らかに、法の適切な目的は、労働から略奪へ向かうこの悲惨な傾向を、共同の力を使って止めることになる。財産を守り、略奪を罰しなければならない。

 

しかしほとんどの場合、法は特定の個人、あるいは階級によって制定される。そして法は、支配的な力による支持と制裁なしには機能しないため、そうした実力は法の制定者に委ねられることになる。

 

こうした不可避的な現象と、前述した人間の本性に存在する悲惨な傾向とが相まって、法はほとんどいたるところで濫用されることになる。よって法が不正を抑制するのではなくて、不正にとっての武器、無敵の兵器となる。ほとんどの社会では、程度の差はあっても、立法者の権力と利益のために、法は人びとを人格的に隷従させ、自由を抑圧し、財産を略奪する。

 

人は自分が犠牲となるような不正に対して、自然と反抗する。よって立法者の利益のために略奪が合法的に組織化されるとき、すべての略奪される階層は、平和的、あるいは革命的な手段によって立法者になろうとする。強奪される階級が政治力を得ようとするとき、その啓蒙の程度によって、2つの大きく異なった目標を提案することができる。1つは合法的な略奪を止めようとすることであり、もう1つはそれに加わろうとすることである。

 

略奪の被害者階級が法を制定する権力を握るとき、後者の考えが広がっているなら、そうした国家には3度もの悲惨と悲哀が訪れるだろう! 

 

これまで合法的な略奪は、少数者が多数者に対して行ってきた。それは立法に参加する権利が少数者にしか許されていないところでは、普通であった。しかし一般参政権が実現すると、普遍的な強奪活動にも釣り合いが求められようになった。社会に見出される不正を根絶する代わりに、不正を一般的なものにするのである。被支配者階級が政治権力を握るやいなや、彼らは他の階級に対する報復のシステムを確立する。そこで合法的な略奪は放棄されない。(この目標のためには、彼らは今以上に啓蒙されなければならない。)たとえそれが、自分たちに不利益を招くとしても。

 

それは、あたかも正義が実現する前には、誰もがその邪悪さと、その無知に対する残虐な報復に苦しむ必要があるかのごとくである。

 

社会にもっとも大きな変化と不幸をもたらすのは、法を略奪の手段へと変えることである。

 

そうした混乱の結果はどのようなものか? それを書き尽くすには何冊もの書物が必要になる。よってここではもっとも衝撃的な点だけを指摘するに止めよう。

 

最初に、それは人々の良心から、正義と不正の区別を失わせてしまう。

 

法がまったく尊重されない社会は存在しえないが、法を尊重させるもっとも確実なやり方は、法を尊重に値するものにすることだ。法と道徳が互いに矛盾するとき、市民は道徳感覚を失うか、法への敬意を失うかの残酷な択一を迫られる。これらの2つの悪行の結果はお泣くほどに重大であり、それを選ぶのは困難だろう。

 

法の本質は、正義を維持することにあり、人びとの心では、法と正義は同じものである。我々にはすべて、合法的なものは正当なものだと信じる強い傾向がある。この考えはあまりに一般的であるため、多くの人々は、法が決めたことは正当であると誤信する。よって多くの人びとに対して、略奪が正しく神聖なものであるかのように見せかけるためには、法を布告して罰則を与えるだけで良い。奴隷制度、経済規制、独占を擁護するものは、そこから利益を得るものばかりではなく、それによって苦しむものにさえも存在する。これらの制度の道徳性について疑義を提出しようとすれば、「おまえは危険な革新主義者、ユートピア主義者、単なる理論家、不法者だ。おまえは社会の基礎を掘り崩そうとしている」と言われる。

 

あなたは道徳性や政治学について講義をする立場にあるだろうか? その場合、次のような思想に基づいて、政府に請願活動をしている公的な組織があることに気がつくだろう。

 

「その学問は、これまで行われてきたような、(自由、財産、正義などの)自由貿易の視点からのみ教えられるべきものではない。フランスの経済を律する事実や、(自由、財産、正義に反する)法の視点からも教えられるべきである。そして国庫から給与が支給される公立大学の教授職においては、現時点で有効な法律に対する敬意をわずかでも危うくさせるようなことは、厳に慎まなくてはならない。」[1]

 

よって、もし奴隷制や独占、抑圧や強盗などを制裁する法律があるなら、それに言及することはできない。法が生み出す尊敬の念を毀損する可能性なしに、法について議論することはできるだろうか? さらに、道徳性と政治経済学はこうした法的な視点から教えられなければならない。単に法であるだけで正しいという前提からである。

 

こうした悲劇的な法の濫用が持つまた別の効果は、それが政治的な情熱や紛争、そして政治全般に対して過剰な重要性を与えることである。

 

このことは1000通りものやり方で証明できるだろうが、ここでは例示のために、最近人びとの関心を引く1つの話題をとりあげよう。それは普通参政権である。

 

ルソー学派の人びとは、自らをたいへんに進歩的だとみなしているが、私には20世紀も遅れているように思われる。彼らがなんと言おうが、普通参政権とは、その言葉のもっとも厳格な意味において、検討したり疑ったりすることが罪となる神聖なる教えではない。

 

普通参政権に対しては、大きな反論が存在する。

 

最初に、普通という言葉は、ひどい詭弁である。フランスには3千600万人の人がいる。よって参政権を普通にすれば、3千600万人の有権者になる。しかしもっとも広い参政権の場合でさえ、900万人にしか投票を許していない。4人のうち3人が排除されており、彼らは最後の1人によって投票を許されていないのである。こうした排除はどういう理由に基づくのだろうか? それは “無能力”の原則である。普通参政権とは、“有能力”である人びとにとっての普通参政権を意味する。しかしそこでも、実際的な疑問が残る。誰が有能力であるのか? 年齢、性別、犯罪歴だけが、無能力を判断する手がかりなのだろうか? 

 

このことをもっと詳細に検討してみれば、無能力の前提に基づいた参政権を持ち出す理由がすぐにわかる。その理由は、投票者たちが自分に対してだけでなく、皆に対する権利を実行しているからである。

 

 

もっとも広い参政権を認める制度と、狭い範囲しか認めない制度の違いは、どういった手がかりを評価して能力を認めるかという点にある。それは原則というよりは、程度の違いでしかない。

 

もしギリシャ・ローマ思想的な共和主義者が主張するように、参政権が誕生とともに発生するのであれば、女性や子供の投票を禁止するのは正義にもとるだろう。なぜ彼らの投票を禁止するのか? なぜなら彼らが無能力だと評価されるからだ。では、なぜ無能力が排除の理由になるのか? なぜなら投票の結果が及ぶのは投票者だけでないからだ。なぜなら投票は社会の全員に影響を与えるからだ。なぜなら人びとには、自分の幸福や生存にかかわる法律に関しては、一定の保障を求める完全な権利があるからだ。

 

これに対する返答がどういったものかはわかっている。またどういった再反論があるのかも。しかしここは、この種の論争を尽くす場所ではない。私が指摘したいのは、こうした普通参政権(その他多くの政治的な問題)についての議論は国中を動揺、興奮、混乱させているが、もし法が本来あるべき形をとっているなら、ほとんど重要性を失うということである。

 

実際、もし法が人身、自由、財産の保護に限定されているなら、もし法が個人の自衛権を集めて組織化したものにすぎないなら、もし法がすべての抑圧と略奪をチェックして罰し、阻止するのであれば、市民同士が一般参政権の範囲に対して多くの議論することなどあるだろうか? 

 

こうした状況では、至高の善である公共の安寧が危険にさらされることなどあるだろうか? 政治から排除された階級が、参政権が得られるまで忍耐強く待つことを拒否するなどということがあるだろうか? 投票権を持つ者たちが、その特権を抜け目なく擁護しようとするということがあるだろうか?

 

全員の利益が一致した状況では、他人に迷惑をかけずに行動できることは明らかではないだろうか? 

 

しかしその反面、次のような致命的な原理が採用されたとしよう。組織や規制、保護、あるいは補助という名目で、法はある人の財産を取り上げ、別の人に与える。法は全階級の富を取り上げ、農民、製造業者、商人、船舶所有者、芸術家、あるいは俳優といった少数に与える。こうした状況では、当然すべての階級が立法権を手に入れること、投票権を得ること、便益の分け前に与ることを熱烈に望む。排除された階級は怒って、社会の転覆を図るだろう。乞食や浮浪者でさえも、議論の余地のない投票権を持っていることを証明するだろう。彼らは言う。

 

「我々もワイン、タバコ、塩には税金を払っている。この税の一部は、法律による特権や補助となって、もっと豊かな人びとに与えられている。また法律によって、パンや肉、鉄や衣服の値段を引き上げるものもいる。こうして他の皆が自分の利益のために法を利用しているのだから、我々も自分たちのために法を利用したい。我々は、「援助を得る権利」を要求する。それは略奪のうちの、貧しい者たちへの分である。このために我々は投票し、立法を行う。ちょうどあなたたちが貿易の保護主義を組織したように、我々は自分たちのために施しの組織を広げる。我々乞食に対して「これからはあなた方のために活動しよう。ミネレル氏が提案したように、犬に骨を投げるように我々にも分け前を投げ与えよう、我々を黙らせるために60万フランを与えようなどとは言わないでもらいたい。我々は、その他の主張も持っている。ともかく、他の階級が自分たちのために取引してきたように、我々も自分たちのために取引をしたい!」

 

この議論に対して、どう答えるのか? 

 

こうして、法がその本来の目的から逸脱することがあること、法が財産を守るのではなく侵害することがあることを認めるなら、略奪から身を守るためであれ、略奪を利用するためであれ、すべての人が法の制定に参加しようとするだろう。政治的な議論は、常に暴力的、支配的、優先的である。つまり立法議会の入り口ドアでは殴り合いが起こり、内部の争いも同じほどに苛烈である。そのことは、イギリスやフランスの議会を見るまでもなく、単にそうした疑問について考えてみるだけでも自明である。

 

こうした法の不愉快なる濫用こそが憎しみと不和の尽きせぬ源であり、社会そのものを破壊するほどであることには、証明が必要だろうか? もしその証明が必要なら、アメリカを見ると良い。この国の法は、世界でもっとも誠実に役割を果たしている。各人の自由と財産を守ることである。その結果、この国ほど社会秩序が安定的な基盤を持っている場所はないように思われる。しかし米国においてさえ、当初から公共の平和を脅かす2つの、ただ2つの問題が存在する。

 

2つの問題とはなんだろうか? それは奴隷制と関税である。つまりアメリカの共和国主義的な精神に反して、これら2つの問題だけにおいては、法が略奪的な性格を帯びているのである。

 

奴隷制度は、法的に認可された人権侵害である。保護主義は、法が維持し続ける財産権の侵害である。

 

数多くの問題がある中で、不幸なことに旧世界から受け継いだ、これら2つの法的問題のために合衆国が崩壊しえること、するだろうことは本当に驚くべきである。法が不正の道具となっている。社会の本質において、これ以上に驚嘆すべき事実は想像することができない。そしてもし、こうしたことが例外的に起こっているにすぎないアメリカでさえ、この事実が悲惨な結果をもたらすなら、ヨーロッパの結末はどういったものになるのだろうか? ヨーロッパでは法の悪用が原則であり、システムなのである。

 

ド・モンタランベール氏は、有名なカリエール氏の宣言を引用して言った。「我々は社会主義に対しての戦争をしなければならない。」 そしてシャルル・デュパン氏の定義に従うなら、社会主義というとき、彼は略奪について語っていると考えねばならない。

 

しかし彼はどんな種類の略奪について語っているのだろうか? というのも、略奪には2つの種類があるからである。違法な略奪と、合法的な略奪である。

 

違法な略奪は窃盗、詐欺などと呼ばれ、刑法によって定義され、処罰される。こうしたことが社会主義の名において秘匿されるとは思われないし、体制的に社会の基礎を驚異に晒すようなこともない。またこの種の略奪に対する戦争は、モンタランベール氏やカリエール氏の指摘を待つまでもない。それは歴史が始まって以来、戦われてきた。フランスでも二月革命のはるか以前、社会主義の亡霊のはるか以前から、警察、憲兵、監獄、囚人集落、死刑場など、すべての行政力によって実行されてきた。この戦いは法そのものであり、私の見解では、我々が望むのは、法が略奪に対して常にこうした態度を取り続けることだ。

 

しかし、そうはなっていない。時には、法は略奪の味方をしている。時には、受益者の困惑や危険、良心の咎めがないように、法自体が略奪することもある。時には、警察、憲兵、監獄など行政力のすべての制度を動員して略奪に加担し、自衛しようとする犠牲者を犯罪者として扱う。つまり合法的な略奪があり、疑いなくモンタランベール氏はこのことについて語っているのである。

 

そうした略奪は国民立法における、例外的な汚点であるかもしれない。その場合には、弁論したり嘆いたりするのは適切ではない。その受益者は悲鳴をあげるだろうが、できるだけ速くに廃止するのが最善の方策だ。どうやって、そうであることを知ることができるだろうか? それは簡単だ。法が誰かの所有物を取り上げて、持ち主以外に与えているかどうかを見れば良い。特定の市民が、自分では罪を犯さずには実行できないことを法が実行しているか、その市民が他人の犠牲において便益を得ているかを見れば良い。こうした法は急いで廃止しよう。それは不正であり、不正の多様な温床である。なぜなら、そうした法は報復を呼び、よくよく注意しなければ例外的な法が広がって体制の一部となるからだ。疑いなく、こうした法の受益者は悲鳴を上げるだろう。彼らは既得権益がある、彼らの特定の商品は国からの保護や補助を受ける権利があると言う。自分たちが豊かなら消費する、それは貧しい労働者にも所得をもたらすため、国が自分たちを豊かにするのは良いことだと主張する。こうした詭弁に耳を貸してはいけない。まさにそうした議論を体系化することで、合法的な略奪が制度化されるのである。

 

これが実際に起こったことだ。すべての産業が、互いの犠牲において豊かになるという白昼夢である。それは組織化による、略奪の一般化だ。さて、合法的な略奪を実行するには、無限のやり方がある。略奪を組織化するには、無限のやり方がある。関税、保護政策、価格統制、補助金、奨励金、累進課税、無償教育制度、職を得る権利、経済援助を受ける権利、労働の用具を使う権利、融資を受ける権利、などなど。これらすべての方法は、すべて合法的な略奪であるから、社会主義の名で呼ばれねばならない。

 

さて、このように定義された社会主義は1つの体系的な教義となっている。それに対する戦いは、教義そのものへの戦い以外にどんな種類をとりえるだろうか? この教義は誤りであり、馬鹿らしく、忌まわしいものだと感じるだろうか? 反証してみてほしい。誤りがひどく、馬鹿らしく、忌まわしいものであればあるほど、簡単なことだろう。なにより、もし徹底しようとするなら、法に忍び込んだすべての社会主義的な要素を抜き出すことから始めてもらいたい。とても小さな作業どころではない。

 

モンタランベール氏は社会主義に対する暴力を求めたことで批難された。これはいわれのない批判である。なぜなら彼は公式に、「社会主義に対する戦いは、法、名誉、正義にかなったものでなくてはならない。」と述べているからだ。

 

しかしモンタランベール氏は、自分が悪循環に陥っていることをどうして見抜けなかったのだろうか? 社会主義に対して法的手段で反対したいだって? まさに社会主義こそが、法に訴えているのだ。違法な略奪を実行しようとしているのではなく、合法的な略奪である。ちょうどあらゆる種類の独占のように、社会主義が道具として使うのは法そのものであり、いったん法を味方につけたなら、どうやってひっくり返そうというのか? どうやって法廷、憲兵、監獄の大いなる力によって閉じ込めることができるのか? 

 

では、どうすればよいのか? 社会主義者が立法に加わるのを阻止するか、立法議会から閉め出すか。合法的な略奪の原理に基づいて議会で立法がなされる限り、これはうまく行かないに違いない。それはあまりに不正であり、馬鹿げている。

 

合法的な略奪の問題は、絶対に解決しなければならない。それには3つの選択肢がある。

 

                 少数者が多数者から略奪する、

                 万人が、万人から略奪する、

                 誰も、誰からも略奪をしない。

 

部分的、普遍的な略奪か、その廃止かを選ばなければならない。法は、これら3つの選択肢から1つを追求することしかできない。

 

部分的略奪。この体制は、投票権が部分的である時代に広がっていた。社会主義の侵略を避けようとするなら、この制度に戻ることになる。

 

普遍的略奪。この体制は、投票権が一般的になり、人びとがかつての立法議員たちと同じように立法をするとき、我々の脅威となる。

 

略奪の消滅。これは正義、平和、秩序、安定、調和、常識の原則である。私は全力で、最後の息が切れるまで、(ああ、これでは十分ではないが)これを宣言する[2]

 

誠実に言って、法にこれ以上望むことがあるだろうか? その本質としての強制力を伴っている法が、人びとの権利を保障する以外に利用されることなど、考えられるだろうか? 法が本来の領域にとどまらなければ、その目的から離れて、結果的に権利に背く強制力となる。そうならずにいられるかどうか、やってみてもらいたい。それは想像できる社会の混乱としてもっとも悲劇的で不合理なものであるから、この社会問題に求められる本当の解決法とは、次の単純な言葉の中に含まれざるをえない。法とは、組織化された正義である。

 

さて以下のことをはっきりさせよう。法、つまり強制力によって正義を組織化することは、法・強制力によって他の人間活動を組織化しないことを意味する。労働、慈善活動、農業、商業、工業、教育、芸術、宗教などである。なぜなら、これらの2次的な組織によって、第1の不可欠な組織が壊れてしまうからである。実際、人びとの自由に強制が加わる場合に、正義と、法の適切な目的に反しないようなことなど想像できるだろうか? 

 

ここで私は、この時代のもっとも人気のある思い込みに反論を加えよう。法は正義であるだけでなく、それは人道的でもなければならない。法によって、各市民が物質的、知的、道徳的に発達できるように、その自由で非加害的な能力の活用が保障されるだけでは満足ではない。法は、国中に福祉、教育、道徳を直接的に広げるものでなければならないのである。これが社会主義の誘惑的な側面なのだ。

 

しかし、繰り返すなら、これら2つの法の目的は矛盾している。1つを選ばなければならない。ある市民が自由でありながら、同時に不自由であることはできない。ド・ラマルティーヌ氏はかつて私にこう書いてきた。「あなたの教説は、私の政治目標の半分でしかない。あなたは自由のところで止まっている。しかし私は、友愛にまで進んでいる。」私はこう答えた。「あなたの政治目標の後半は、前半を壊してしまうでしょう。」 実際、私にとっては友愛という言葉は、自発的という言葉と切り離すことはできない。友愛を法によって矯正することは、法によって自由が奪われ、法によって正義が踏みつけにされると考えざるをえないのである。

 

合法的な略奪は2つのことに起因する。1つは、これまで見てきたように、人間の身勝手さであり、もう1つは偽りの人道主義である。

 

先に進む前に、略奪という言葉をもっと明らかにする必要がある。

 

私がこの言葉を使うとき、よくあるように、なにか漠然として、不明瞭で、大まかで、比喩的なものとして使っているのではない。その本来の科学的な意味において、財産権に反する概念として使っているのである。ある財産を獲得した人から、暴力によってであれ詐欺によってであれ、同意と補償なしに、その財をつくってはいない人に与えるとき、私は財産権が侵害され、略奪が起こったという。この事態こそ、法があらゆる時、あらゆる場所で防がなければならない。もし法が防ぐべき行為を実行しているなら、やはり略奪が起こっており、さらに社会的には、さらに悪い状況にある。この場合においては、責任を負うのは略奪の受益者ではなく、法、立法者、社会である。その点こそが、政治的な危険となっているのだ。

 

この言葉が攻撃的な響きを持っているのは残念である。これまで別の言葉を探しては来たが、それが見当たらない。今日も、我々が同意できない多くのことに加え、さらなる刺激となる言葉を使いたくはない。この理由から、信じられないかもしれないが、私はどんな個人の意図や道徳性をも、まったく疑ってはいない。私はただ、間違っていると感じられる考えと、不正だと思われる行為を攻撃しているのだ。それは私たちの思惑をはるかに越えているため、我々は意図しないうちに利益を受けていたり、知らないうちに苦しんでいたりするほどである。

 

保護主義者、社会主義者共産主義者たちの誠実さを問題にしているのではない。そういう疑いは、政党政治や政治的恐怖から影響されているのだろう。しかしながら、指摘しておかなければならないのは、保護主義社会主義共産主義とは、同じ植物の3つの異なる成長段階だということだ。ここで言えるのは、保護主義においては特定の産業に偏っているために[3]、また共産主義においては、それがすべての産業に普遍的であることで、略奪がはっきりとしているということだ。とすれば、これら3つの体制の中で社会主義がもっとも曖昧、不明確で、結果としてもっとも誠実な段階だということになる。

 

誠実であれ、不誠実であれ、彼らの意図は問題ではない。実際、合法的な略奪が、偽りの人道主義に一端を発していることについては前述した。

 

このことを理解したうえで、一般的な善を普遍的な略奪によって達成しようという人気のある考えはどんな価値を持っているのか、それはどこから来て、どこへ向かうのかを検討してみよう。

 

社会主義者は言う。「法は正義を組織化したものであるから、労働、教育、宗教も法によって組織化すべきでないのか?」

 

なぜか? それは、法が労働、教育、宗教を組織化すれば、正義が混乱することになるからである。

 

わきまえてもらいたい。法は強制力であるため、その正当な領域は、強制が正当である領域を超えることはできない。

 

法と強制によって個人が正義にかなった存在であるというとき、それらが個人に押し付けるのは純粋な行為の否定だけである。害悪をなすことを差し控えさせるだけなのだ。法と強制は、個人の身体や自由、財産に対しては干渉しない。法と強制は、他人の身体、自由、財産を守るにすぎない。それらは防衛的なものにとどまり、すべての人権を平等に守るのである。その目的は明らかに無害であり、明白に有用であり、疑いなく正当である。

 

これは本当に正しいことであり、ある友人のおかげで気づいたことだが、「法の目的は、正義の支配を確立することである」というのは、厳密には正しいとはいえない表現なのである。本来の言葉は、「法の目的は、不正が支配するのを阻止することである」というものなのだ。実際に実在するのは正義ではなく、不正義である。正義は、不正の不存在から生じるのである。

 

しかし、法がその本質的な媒体である強制力を使って、労働のやり方、教育の内容や方法、信仰や信条を個人に押し付けるとき、それは消極的なものではありえず、積極的なものである。それは個人の意志を、立法者の意志置き換える。人びとはもはや疑問を感じたり、物事を比べたり、未来を計画しない。代わりに法がすべてを行う。知性は有用なものではなくなる。人びとは人間であることを止め、その身体、自由、財産を失う。

 

自由を抑圧しないような強制的な労働形態、財産権を侵害しないような強制的な富の移転を考えてみてもらいたい。もし不可能なら、不正を生み出すことなしには、法が生産活動を組織できないことに同意しなければならない。

 

政治家がオフィスの窓から社会を見渡せば、目に映るあまりの不平等に驚嘆してしまう。同胞たちのあまりに多くが苦しんでいることに涙し、その苦しみを贅沢や富裕と対比するなら、ますます悲しみは深くなる。

 

おそらく彼は、そうした社会の状況は、過去の征服による略奪や、現在の法による略奪によるのではないかと自問すべきである。人は皆、自らの生活の向上や農地の改善を切望している。とするなら、個人の責任に見合うほどには平等や発展が実現していない理由として、正義の支配が十分なのかどうかを問わねばならない。神が人に与えた個人的な責任は、美徳と悪徳、その報酬である。正義が阻まれているために、そうした個人的な責任は、人類の平等や発展と釣り合ってはいないのではないだろうか?

 

政治家はこうしたことを考えてみようともしない。彼は合法的、あるいは見かけ上合法的な交渉、合意、組織などについて考えるだけである。彼はこうした不幸を生み出した状況を維持、悪化させるような治療法を求める。

 

これまで見たように、正義とは否定的な概念である。積極的な活動の中で、略奪原理を含まないものなどあるだろうか?

 

「ここに貧しいものがいる」と言って、法を差し向ける。しかし法は、自然に溢れてくる乳首ではないし、その乳は社会から吸い出しているにすぎない。特定の個人や階層に配られる国庫に入ってくるのは、他の市民や階層から強制的に奪われたものでしかない。もし各人が引き出せるのが自分が入れた分だけであるなら、確かに法は略奪的ではないが、貧しい人々には何ももたらさないし、平等とも無関係である。法が平等の道具となるのは、誰かから取り上げ、誰かに与える限りであるが、その場合の法は略奪の道具となっている。関税による保護、生産補助、利益を得る権利、労働の権利、生活保護の権利、教育を受ける権利、累進課税、無利子の貸付、あるいはこうした視点からの勉強会などを見れば、かならずその根本には、合法的な略奪と組織化された不正が見出される。

 

「ここに啓蒙されていないものがいる」と言って、法を差し向ける。しかし法は、自然に燃え上がり、広くあたりを照らす松明ではない。それは社会に広がる考えであり、社会には知っているものもいれば、知らないものもいる。学ばねばならない市民もいれば、教えようとする市民もいる。社会は次の2つのうち、1つしか実行できない。この種の知恵の交換を自由にして、そうした需要を自由に満たさせること。あるいは、この種の人びとの望みを隔離して、誰かから金銭を取り上げて、無料で人びとに教育を与える教師を雇うこと。しかし2番目wの場合には、自由と財産権の侵害、つまり合法的な略奪をしなければならない。

 

「ここに道徳や信仰を持たないものがいる」と言って、法を差し向ける。しかし法は強制である。暴力を使うことが、どんなに乱暴で気狂いじみたものになるのかを指摘する必要があるだろうか?

 

社会主義の理論や努力のあり方をどんなに寛大に見たとしても、それは合法的な略奪という悪魔から逃れることはできない。しかし、社会主義は何をするのか? それは友愛、団結、組織、協会などといった魅惑的な名前を使って、人びとの目から、また自らの目からさえも合法的略奪を巧妙に覆い隠す。我々が法に正義のみを求め、それ以外の多くを求めなければ、

社会主義者は、我々が友愛、団結、組織、協会を否定したと考えて、「個人主義者!」と罵る。

 

ここで社会主義者が知らなければならないのは、我々が拒否しているのは、自然に生じる組織ではなく、強制的な組織だということだ。

 

それは自由な交友ではなくて、社会主義者が我々に押し付ける権利を持っていると主張するような交友なのである。

 

それは自発的な友愛ではなくて、法律的な友愛である。

 

それは天命による団結ではなくて、作為的な団結である。それは神からの責任というものの不正な置き換えにすぎない。

 

社会主義は、昔からの政治から生じたものであり、政府と社会とを混同している。そのため、政府があることをすべきではないと我々が言うたび、社会主義者は、我々がそれをまったく行うべきではないと考えていると結論する。我々は、国による教育を拒否する。とすると、我々は教育を否定している。我々は、宗教の国教化を拒否する。とすると、我々は宗教を否定している。我々は、国の力による平等を拒否する。とすると、我々は平等を否定している、などなど。それはまるで、国が小麦を育てるべきではないからといって、何も食べないことを望んでいると批難するかのごとくである。

 

こうした奇妙な思想は、なぜ政治の世界で支配的になったのだろうか? 本来法が含んでいないもの、つまり良い意味での商品や富、科学や宗教までも生み出すという考えである。

 

現代の政治思想家、特に社会主義者たちは、共通の仮説の上にその理論を組み立てる。それは間違いなく、人間が考え出した中で、もっとも奇妙で傲慢な仮説である。

 

彼らは人間性を2つの部分に分ける。自分1人を除く全員が、第1の部分を構成し、政治思想家である自分だけが、第2のはるかに重要な部分を構成する。

 

実際、彼ら社会評論家は、人びとが何の行動原理も、道理を理解する方法も持っていないという前提から始める。彼らは自分から行動することがなく、自発性を持たず惰性に支配される受動的な原子や分子なのである。せいぜい、自らの存在形態には無関心な植物のようなものであり、外部からの意志や力から与えられる形を受け入れるにすぎない。それがいかに多様性のある、均整が取れた、芸術的なものであったとしてもである。

 

社会主義者は単純に、自分自身がリーダー、預言者、立法者、教師、創始者として、世界の原動力、創造力となっていると考える。その崇高なる目的は、散り散りになった人間性というものを集めて、社会をつくることである。

 

こうした前提から出発して、ちょうど庭師が意のままに、樹木をピラミッド、傘、箱、三角錐、花瓶、果樹、糸巻き棒、うちわの形に刈り込むように、社会主義者は、彼らの理想から哀れなる人間たちを、集団、序列、中心、半中心、ハニカム形状、あるいは社会的、調和的、対照的な勉強会、などなどの形へと刈り込む。

 

そして、ちょうど庭師が樹木を剪定するにはオノやノコギリ、カマやハサミが必要なように、社会主義者はお気に入りの社会を整えるために、法にしか持ちえない強制力を必要とする。関税法、税法、補助や教育を規律する法である。

 

社会主義者は、人間性は社会モデルに従って改変できる素材だと考えている。もし万が一、そうした企てが成功しないとしても、少なくとも人間性の一部は、実験の素材になると主張する。すべての社会制度を試してみるという考えが、いかに社会主義者に人気があるかはよく知られているし、彼らのリーダーの1人は、自分にこうしたテストをするためのコミュニティを与えてくれと、立法議会に真剣に願い出たほどなのである。

 

このようにして発明家とは、大規模に行う前に小さな機械モデルをつくってみるものである。化学者は少しばかりの試薬を使うし、農民は農地の角でテストするために少しばかりの種を使う。

 

しかし、庭師と樹木、発明家と機械、化学者と試薬、農民と種、それらにはなんと桁違いの距離があることだろうか! これこそ社会主義者たちが、自分たちと人びとの間に存在する違いであると、極めて真面目に信じているものなのだ。

 

19世紀の社会思想家が、社会は立法者の天才による人為的な創造物だと考えることも、何ら驚きではない。こうした考えは古典教育の結果であり、この国のすべての大いなる思想家や著述家を支配している。

 

彼らすべてが、人間と立法者の関係は、粘土と陶芸家の関係と同じだと考えているのである。

 

さらには、確かに政治思想家はたちが人間の知性が持つ理解力や心の持つ行動力を認めることはあっても、彼らは、それらが神からの致命的な贈り物であり、人間はそれらによって必然的に堕落してゆくと考える。人間が自らの力だけに任されれば、宗教は無神教へと、教育は無知へと、生産と交換は貧困へと陥ってしまうと思い込むのだ。

 

彼らによれば、幸運なことに支配者や立法者という少数者がいて、天は彼らに対して、彼らのためだけでなく、その他の者たちのためにも正反対の性質を授ける。

 

 

人間は邪悪へと向かう性質を持つが、彼ら少数者は善へと向かう。人間は暗闇へと歩み続けるが、彼らは光を求める。人間は悪徳に引き寄せられるが、彼らは美徳へに惹かれる。こうした考えの上で、彼らは自分たちに、全人類の活動を置き換える力を与えることを主張するのである。

 

哲学、政治、歴史についての書物をランダムに開いてみるだけでよい。この国で、どれほどこうした考えが根深く支持されているかがわかるだろう。人間は単なる惰性的な存在であり、政府から人生、組織、道徳、富を同じように与えられる。これは古典に由来する考えであり、社会主義に受け継がれている。さらに悪いことには、人間は次第に劣化しており、その坂道から逃れるには神秘的な立法者に頼るしかない。伝統的な古典思想によれば、受け身でしかない社会の裏には、法、あるいは立法者と呼ばれる力が働いている。もっと便利で曖昧なフランス語でそれを言い換えるなら、「それ(ON)」と呼ばれるものである。それは人類に命と富を与え、善へと導く。

 

ボシュエ

「それ(誰なのか?)が、エジプト人の心にもっとも強く植え付けたのは、愛国心である。。。誰もが国の役に立たねばならない。誰にも法によって割り当てられた仕事があり、それは父から息子へと受け継がれる。2つの仕事を持つことはできないし、仕事を変えることもできない。。。しかし村落共同の活動がある。それは法と伝統的な知恵の学習である。国の宗教と政治を知らないことに対しては、いかなる状況においても言い訳が許されない。さらにどの職業も、特定の地区に割り当てられている(誰によって?)。。。良い法律の中でもっとも良いものは、法律を守るように教育されることである(誰によって?)。その結果、エジプトはすばらしい発明で満ち溢れ、そこでは生活を安易で平穏なものにするようなことのすべてが実現している。」

 

よってボシュエによれば、人間は自分で何かを作り出すことなどない。それは愛国心であれ、あるいは富、活動、知恵、発明、農業、科学であれ、すべて法を通じて、王から受け取る。人びとがしなければならないのは、単に従うことだけである。ボシュエの議論は高まり、ディオドロスが、エジプト人レスリングや音楽をしなかったと批判していることさえも誤りだと言う。彼は言う。「そんなことがあるはずがない。これらの芸術はトリスメギストスによって発明されたのだから。」

 

同じようにペルシャでは、

「王子の重要な任務は、農業振興を確かなものとすることであった。。。軍隊を指揮するための特別な部署があるように、農作業を監督する特別な部署が存在したのである。。。ペルシャ人は王の権威を、過剰とも言えるほどに尊敬していた。」

 

ボシュエによれば、ギリシャ人はとても知的であったが、犬や馬と同じように人生の運命に関して無力であり、自分たちだけではもっとも簡単なゲームを作り出す力さえ持ち合わせていなかった。ギリシャの古典的な伝統は、すべてギリシャ以外の人びとによってもたらされたのである。

 

ギリシャ人は生まれながらに知的で勇敢であり、その最初から、エジプトから来た移民や王が発展をもたらしてきた。彼らエジプト人の支配者から、ギリシャ人は運動、競走、馬や馬車のレースを学んだ。。。しかし彼らがギリシャ人に教えたなかで最善のことは、従順になることであり、公益のための法に従った社会をつくることであった。

 

フェヌロンは古典への敬意と研究の中で育ち、ルイ14世の権勢をみてきた[4]。そのため、人間は受動的であり、その悲惨も繁栄も、美徳も悪徳も、法や立法者たちによる外部的な活動によってもたらされるという考えから逃れることはできなかった。よって彼のユートピアであるサレントゥムでは、人びとと、その関心、能力、望み、財産は、立法者による完全な裁量のうちにある。どんな状況であれ、自分自身が決めることはなく、決めるのは王子である。王子は、国家を構成する、形をもたない大衆の魂として描かれる。王子のうちに思考、先見性、進歩、すべての組織原理と、その結果として生じる責任が存在する。

 

このことを証明するためには、「テレマックの冒険」の第10巻のすべてを書き写す必要がある。それは読者に任せることにして、ここでは、私が最大限の敬意を払っているこの有名な作品から、ランダムにどれだけかの引用することで満足したい。

 

古典の特徴ではあるが、驚くほどの盲信によって、フェヌロンはエジプト人が幸福であったのは、彼ら自身の知恵ではなく、王たちの知恵のおかげだという。それは理性や事実に反している。

 

「ナイルの両岸からは豊かなる町が見渡され、その家々は快適である。沃野は絶え間なく黄金の実りをもたらし、草原には家畜の群れが集う。農民は土地から溢れ出る実りの重さに腰を曲げ、羊飼いの角笛や縦笛の麗しい音色が辺りにこだまする。「賢王に導かれて、人びとはまさに幸福だ」メントールは言った。

 

そしてメントールは、2万2千もの町におよぶエジプト全体に広がる豊かさとその喜びについて、また富めるものをくじき貧しいものを助ける正義について、子どもたちに対する教育について指摘する。子どもたちは従順、勤勉、節酒、芸術や文芸への愛、すべての宗教儀式の厳守、公共精神、名誉、忠誠心、神への畏れなど、父親が子供たちに教えようとすることを学ぶのである。彼はそうした精緻なる秩序をもっとも尊んでいた。彼は私に言った。「このように賢王に導かれて、まさに人びとは幸せだ。」

 

フェヌロンによるクレタ島の牧歌はさらに魅惑的だ。彼はメントールの言葉を借りて付け加える。

 

「この驚くべき島のすべては、ミノス王の法がもたらしたものである。彼が子どもたちに与えるよう命じた教育は、人びとの健康で強壮な体をつくった。子どもたちを単純で、倹約的、肉体的にたくましい生活に慣らしていったのだ。彼らは官能的な快楽は心と体を軟弱にすると考えた。子どもたちには、美徳を通じた勝利と大きな光栄から生じる楽しみのみが許される。ここでは、他所の民族が処罰しない3つの悪徳が処罰の対象となる。忘恩、不誠実、強欲である。虚飾や浪費を抑制する必要はない。なぜならそれらはクレタ島には存在しないからである。豪華な家具、華麗な衣服、素晴らしい料理、装飾された王宮などは許されていない。」

 

こうしてメントールは弟子に、イサカ島の人びとを洗脳し、操作するように仕向ける。疑いなく、人道的に最善の意図を持ってである。師匠は弟子をさらに納得させるべく、サレントゥムの例も引き合いに出す。

 

これこそが、我々に与えられる最初の政治概念である。そこでは、オリビエ・ド・セールが農民に土壌の混ぜ方、扱い方を教えるように、人間を扱うことが教えられる[5]

 

モンテスキュー

「商業精神を維持するためには、すべての法による奨励が必要である。そうした法律の詳細には、商業によって増加する富の分け方として、貧しいものも他のものと同じように働けるだけを与え、富めるものにも貯蓄や生活のために働き続ける必要があるようにすべきである。」

 

こうして法は、すべての富を失わせることになってしまう。

 

「民主主義では完全な平等が国家として望ましいが、しかしながら、それは実現がとても難しく、この点を完全に追求するのは常に適切なわけではない。その差がある程度の範囲に留まるように制限をするだけで十分である。これを超えると、不平等を平等化することは特定の法に委ねられる。つまり、どれだけを富者に課して、貧者に与えるかということである。」

 

ここでもまた、法による、力による富の平等化が推奨される。

 

ギリシャには、2つの共和制があった。1つは軍事制であり、スパルタに代表される。もう1つは商業制であり、アテネに代表される。前者においては、市民は怠惰であることが要請され、後者では、労働への愛が要求された。

 

彼ら立法者たちの天才のほどに、注意してもらいたい。広く受け入れられた習慣を捨て、すべての美徳を否定して、世界に示したその知恵に見てもらいたい。リュクルゴスは、強奪と正義の精神とを、もっとも厳格な奴隷制と最大の自由とを、最も凶悪な感情と最大の節度とを組み合わせて、スパルタに安定をもたらした。彼はスパルタからすべての豊かさ、芸術、商業、貨幣、城壁を取り除いたようなのである。そこでは野心はあっても、より豊かになるという希望は存在しない。スパルタ人にも自然な感情はあったが、彼らは息子ではなく、夫でも、父ではなかった。こうしたやり方で、リュクルゴスはスパルタをもっとも偉大で、栄光あるポリスへと導いたのである。。。 

 

ギリシャの共和制で見られた偉大さは、劣化・腐敗した現代においても見出される。

 

誠実なる立法者によって人びとは、スパルタ市民にとって勇猛さが自然であったことと同じほどに、正直になっているようである。ペン氏はまったくリュクルゴスそのものである[6]。ペン氏は平和を、リュクルゴスは戦争を目的としていたが、市民に新しい1つの道筋を指し示したことでは共通している。自由人に対する影響において、克服した先入観において、示した情熱においてである。

 

また別の例には、パラグアイもある[7]。人に命令する快楽こそが人生で最大の喜びだと考えるなら、それは社会に対する罪を犯そうとしているのである。しかし人びとを幸せにするように統治することは、常に高貴なことだ。。。

 

似たような体制を確立しようとするものは、プラトンの共和国のように財産を共有しなければならない。プラトンが命じたように善を崇拝し、慣習を守るために市民が外国人と交わるのを禁止する。市民ではなく、ポリスが商業を行う。立法者は贅沢ではなく芸術を供給し、欲望ではなく必要を満たさねばならない。」

 

俗物の心酔者がどんなに熱狂的に、「これはモンテスキューによるものだ、だから偉大で、崇高なのだ!」と叫んだとしても、私は勇気と確信を持って言う。

 

何だって? 図々しくも、これが美しいというのか? 

 

それは恐ろしい! 忌まわしい! モンテスキューからの引用をもっと増やしたとしても、彼の見解では、人びと、自由、財産、人類のすべては、立法者の聡明さを実現するための素材でしかないことがわかるだけだ。

 

ルソー。政治思想家としての彼は民主主義者にとって至高の権威であるが、彼は社会組織を「一般意志」によって基礎づけた。彼ほど完全に、立法者に対する人類の受動性という仮説を受け入れたものはいない。

 

「偉大なる王というのは稀であるが、偉大なる立法者というのはどうだろう? 王は、立法者の示した規範に従うだけでよい。立法者は機械を発明する技師であり、王はそれを動かし続けるだけの労働者である。」

 

ここでの人間の役割は、どんなものだろうか? 動かされる機械であり、あるいはその機械がつくられるための材料である!

 

よって立法者と王、王と臣下の間にある関係は、農学者と農民、農民と土壌と同じである。立法者を支配する政治思想家は、どれだけ人類よりも高い位置にあるというのだろうか? ルソーは立法者の仕事について、次のように命じているのである。

 

「国に安定をもたらしたいのか? 両極端のレベルを、できるだけ近づけなさい。富者も貧者も許してはならない。

 

土地が耕すには固すぎ、不毛で、国が小さすぎて住めないのか? 産業と芸術を興し、手に入らない食料と交換しなさい。。。豊かな土地に住民がいないのか? 人口を増やす農業に注力して、人口を減らす芸術を禁止しなさい。。。

 

海岸線があまりに長くて容易に侵入されることが心配なのか? 海を船で溢れさせれば、素晴らしく、しかし短い海岸になるだろう。断崖で海に近づけないのなら、未開のままに魚を食べればよい。より平穏で、良い生活、間違いなく、より幸せな生活が得られる。

 

つまり一般的な格言とは異なり、それぞれの国民には特定の生活を行う理由があり、特定の立法が適切となる。これが、かつてはヘブライ人が、最近ではアラブ人が宗教を主な目的としていた理由である。アテネ市民は文学、カルタゴやチレでは商業、ロードス島民は海事、スパルタは戦争、ローマ人は美徳が主であった。「法の精神」の著者は、社会がこれらの目的に向かうために立法者がどう活動すべきかを示した。。。しかしもし、立法者が適切な目的を見誤り、自然の摂理に示されるものとは異なる原則を選んでしまったら? もし選ばれた原則が、その時々に奴隷制、自由、豊かさ、人口の増加、平和、征服戦争を生み出したなら? 目的の混乱は次第に法を弱め、体制を害してゆく。国は動揺し、崩壊、変化して、無敵の自然が作り出す帝国へと立ち戻ることになる。」

 

しかし自然が強力であり、最終的にその支配する状態へと立ち返ることになるのだとしよう。なぜルソーは、最初から立法者が支配する必要などないことを認めなかったのだろうか? 人びとは自発性のままに、広くて使い勝手の良い海岸線で商業をし始めたのではないのか? なぜ彼は、誤りを犯す可能性のあるリュクルゴス、ソロン、あるいはルソーなど要らないことを認めなかったのか? 

 

それはさておき、ルソーは創設者、組織指導者、監督者、立法者、社会の統治者に多大な責任与えた。そのため、ルソーは彼らに多くのことを要求したのである。

 

「人びとを教導しようとするようなものは、いわば、人間性を変えることができると感じなければならない。一人ひとりがそれぞれに独立した個人を、さらに大きな社会の一部へと変える。そこから人びとは完全な存在のあり方、人生や存在の意義を感じるのである。彼はまた、人びとの体も強壮なものへと変えねばならない。自然から与えられた物質的で、独立した人間の存在を、道徳的で、社会の一部としての存在へと変える。つまり政治的人間を生み出そうとするものは、もともとの人間の力を取り去り、本来的には異質な力を与えるのである。」

 

哀れなるかな、人間性よ! 個人の尊厳は、ルソーの弟子たちにはどう扱われることになるのだろうか? 

 

レーナル[8]

「気候、つまり空や土地は、立法者が最初に考えねばならないものである。利用できる資源によって、彼の義務が決定される。まず土地柄が重要である。海岸に住む人びとには、海運に関する法が定められねばならない。。。内陸の村落であれば、立法者にはその土壌の性質と豊かさに応じた施策が必要になる。。。

 

立法の知恵がもっとも輝くのは、何よりも財産の分配についてである。一般に世界のすべての国で、新たな植民地が建設されるとき、一人の男には土地が与えられねばならない。つまり、家族を養うのに十分な広さの土地である。。。

 

子どもたちと未開の島に移住するときは、理性が発達するにつれて、真理の種が伸びゆくのを見守るだけでよい。。。しかし、すでに過去を持っている大人が植民するときに、立法者にとって重要なのは、治すことのできるような有害な意見や習慣を禁止する政策である。そうした習慣を受け継がせないためには、子どもたちのための一般公共教育を通じて、次の世代を監督しなければならない。王や立法者が植民地を建設するには、まず若者を教育するために知恵のあるものを送り込まねばならない。。。

 

新たな植民地では、人びとの習慣や活動をより良いものにすべく、立法者はすべての機会を利用するべきである。立法者に徳と才がある場合には、彼の支配する人びと・場所では、彼の望むような社会が花開くだろう。しかし社会思想家には、そうした未来を漠然としか予見できない。なぜならこれらの仮定は不安定なものであり、状況に応じて変化し、互いに複雑に影響を与えるため、その結果を予測するのはあまりに困難だからである。」

 

立法者が人びとを支配するためのロナールの教えを、農学者の学生への教えを比べてみよう。「気候は、農民が最初に考えねばならないものである。資源によって、彼のやり方が決定される。まず土地柄が重要である。赤土であれば、これこれをすべきである。砂地であれば、また別のやり方に従うべきである。土地を慣らして改善すべく、農民は、すべての機会を利用するべきである。農民に賢いならば、彼の土地・肥料によって彼の望むものが花開くだろう。しかし農学者には、そうした未来を漠然としか予見できない。なぜならこれらの仮定は不安定なものであり、状況に応じて変化し、互いに複雑に影響を与えるため、その結果を予測するのはあまりに困難だからである。」

 

ああ、至高なる社会思想家よ! 時には思い出してもらいたい。その赤土や砂とは、あなたが自分勝手に取り扱う材料とは、人間であり、同胞たちなのだ。彼らはあなたと同じほどに知的で、自由である。同じように神から先見の明、洞察力、思考力、判断力を与えられているのだ!

 

次は方と立法者についての、マブリの記述である[9]。この引用の直前に、マブリは、法が廃れており、安全が確保されなくなったと考える。そして読者に向かって続ける。

 

「こうした状況では、政府のゼンマイが緩んできていると考えねばならない。(マブリは読者に言う)。もう一度巻き直すなら、病は治癒するだろう。。。誤りを罰するよりも、美徳を奨励せよ。そうすれば、共和国には青年の活気が蘇るだろう。自由人が自由を失うのは、このことを知らなかったからなのだ! しかしもし病が進み、通常の統治ではもはやうまく治療できなくなったときには、少数の特別統治者に、短時間に限って大きな力を与えるべきである。そうした状況では、市民の想像力に活を入れなければならない。」

 

こうした調子で、マブリは全20巻を続けるのである。

 

こうした古典教育に基づく教えの影響によって、かつては皆が自分のことを人間性の上に位置しており、自分の視点から人類をお膳立てし、組織化し、統御しようとしていたことがあった。

 

コンディヤック

「主よ、自らがリュクルゴスかソロンになったとお考えください。読み進める前に、アメリカやアフリカの未開民族に法を与えることを、しばし御想像なさるのです。彼ら遊牧民を定住させ、家畜を育てることをお教えください。自然が彼らのうちに植え付けた社会性を育ませます。人類の義務を果たさせます。彼らが情のもたらす快楽を嫌うよう、罰を与えます。そうすれば、こうした立法によって、彼ら未開人は悪徳を捨て、美徳を得るでしょう。」

 

「すべての民族に法がありました。しかし幸せであったものは、わずかです。なぜでしょうか? それは立法者が、次のことを常に忘れてしまったからです。社会の目的とは、公益によって多くの家族を結束させることにあることをです。」

 

「法における平等とは、2つのことを意味する。富の平等と、市民の尊厳の平等である。。。法が平等を実現すればするほど、法は市民にとって重要なものになる。富と尊厳において平等である人びとが、どのようにして貪欲、野望、色欲、怠惰、無作為、妬み、憎しみ、嫉妬などに耽るだろうか? 法によって、平等を害する可能性などないのである。(牧歌は続く。)

 

スパルタ共和国について語られてきたことは、この疑問に対するさらなる洞察を与えてくれる。スパルタの法ほどに自然で平等の秩序にそったものは、これまでどの国にも存在しなかったのである。」

 

17, 8世紀において、人類が受け身の存在だと考えられたことは驚きではない。人間はただ待つだけであり、立法者である王や天才たちから体、顔、刺激、活動、命のすべてを受け取る。この時代には、古代研究が大量に押し進められた。エジプト、ペルシャギリシャ、ローマのどこにおいても、少数の者の実力や詐欺行為によって民衆が効果的に操られていた例には、事欠かないのである。これは何を意味しているのだろうか? 人間と社会は進歩してきたため、歴史の始まりの時代のほうが、失敗や無知、専制奴隷制、迷妄にあふれていただろうということだ。これまで引用してきた思想家たちの誤りは、そうした事実があったことを書き記していることではなくて、それがあたかも尊敬すべき模範であり、未来への導きであるかのように考えることだ。彼らの誤りは、信じられないことに、批判的な分析をまったく加えないままに、幼稚な伝統主義にそった形で、まったく受け入れがたいものを安易に受け入れたことにある。それは古代世界の、不自然な社会における栄華や道徳、幸福だ。彼らはまた、時代が進むにつれて啓蒙の光が生まれ、広がること、光が明るく照らすほどに力は正義に味方し、社会はその形を取り戻すということを理解していない。

 

そして実際、我々が目にしている政治活動はどのようなものだろうか? それは自由を求める人びとの本能的な努力に他ならない。そして自由とは何か? その言葉は心臓を高鳴らせ、世界を動かす力を持つ。それは良心、教育、交遊、言論、旅行、労働、商業など、すべての自由の集合ではないのか?つまり、すべての人間による、すべての非侵害的な活動を実践する自由である。さらには、合法的な専制を含む、すべての専制体制の破壊であり、法をその唯一の合理的な部分、つまり個人の正当な防衛権の体系化と不正の処罰に限定することだ。

 

人類のこうした活動は、疑いなく、特にこの国では、致命的な思想によって完全に否定されてきた。それはすべての政治思想家に共通した古典教育、つまり自らを人類を越えた高みにおいて、人類を自分の思うままに並べ替え、組織化し、制度化しようとしたことの結果である。

 

社会は自由の実現を求めて動乱する。しかし、それを超越した存在である偉大な思想家たちは、17, 8世紀の政治原理に染まっている。彼らが人類に押し付けるのは、自らの発明した社会制度であり、ルソーが言うように、彼らが考える社会の幸福というくびきなのである。

 

これは特に1789年に当てはまっていた。アンシャン・レジームが崩壊するやいなや、また別の人為的な政治体制が社会を縛ったが、それもまた同じ前提に立ったものであった。法は全能であるという考えである。

 

サン=ジュスト[10]、「立法者は、未来を支配する。何が善であるべきかを決めるのは、彼である。」

 

ロベスピエール、「政府の機能は、国家の物理的・道徳的な力を、その背後に存在する目的へと向かわせることである。」

 

ビョー=ヴァレンヌ[11]、「自由を回復するためには、人びとを再創造しなければならない。古くからの偏見を打破し、長年の習慣を変え、失われた愛情を取り戻し、軽薄な必要性を制限し、不信心な悪徳を取り除く必要がある。そのためには、強力な活動と熱狂的な動機が要求される。。。リュクルゴスによる厳格なる禁欲の中で、スパルタ市民は共和国の揺るぎない基礎となった。か弱く、人の良い性格のソロンは、アテネ市民を再び奴隷へと突き落としてしまった。この対置が、政治学のすべてを物語っている。」

 

ルペルティエ[12]、「人類がどれだけ劣化してきたかを考えてもらいたい。私が確信しているのは、完全なる再生、いうならば、新たな人びとを創造する必要性である。」

 

明らかなように、人間は不道徳な素材にすぎない。善なるものを欲することは、彼らには任されていない。彼らには不可能なのである。サン=ジュストによれば、それは立法者の任務なのである。人びとはただ、彼が望むような存在でしかない。

 

完全にルソーを復唱するロベスピエールによれば、立法者はまず、国家が建設された目的を特定することから始める。その後、政府がなすべきことは、すべての物理的・道徳的な力をその目的に向けることである。国家そのものは、この過程において常に受動的である。ビュー=ヴァレンヌの教えでは、偏見、習慣、愛情、必要性などは、立法者によって認められたものしか許されない。彼はまた、1人の男による厳格な禁欲主義こそが共和国の基礎であるとまで言う。

 

前に見たように、マブリは悪弊があまりにひどく普通の統治では治癒しないときには、美徳の回復のための独裁を勧めている。彼は言う、「少数の特別統治者に、短時間に限って大きな力を与えるべきである。そうした状況では、市民の想像力に活を入れなければならない。」この考えは失われてはいない。ロベスピエールの言葉を聞いてもらいたい。

 

「共和国の原理とは美徳であるが、その確立のための手段とは恐怖である。この国では利己心を道徳へと置き換えなければならない。栄誉心から正直へ、慣習から原則へ、私有財産から義務へ、流行による専横から理性による帝国へ、不幸に対する侮蔑から悪徳に対する侮蔑へ、横柄からプライドへ、虚飾から精神の偉大さへ、金銭欲から栄光への渇望へ、良き相棒から良き人びとへ、陰謀から能力へ、ウィットから天才へ、うわべの輝きから真実へ、快楽の退屈から幸福の喜びへ、偉大な人物の矮小さから人類の偉大さへ、軽薄で劣化した気の良い民族から寛大で強く幸福な民族へ。つまり、王国のすべての悪徳と不条理を、共和国の美徳と奇跡に置き換えるのである。

 

ロベスピエールの、なんと人類の超越した存在であることか! 彼が話している様を見てもらいたい。彼は人間性の大いなる再生を望んでいるだけではない。彼はそれを、組織された政治体制の結果として期待さえしていない。いや、自分自身で、恐怖を通じて実現しようというのだ。この幼稚で矛盾した演説は、革命政府の指導的な道徳的原理として表明された。ロベスピエール独裁制を要求するとき、彼は外国勢力に対抗し、派閥争いの勝利を望んだだけではないことに注意してもらいたい。

 

彼は自分の道徳原理を、恐怖を通じて達成するための独裁を望んだのである。それは新憲法に先立つ一時的な手段であると言ったが、実際には、彼はフランスからすべての利己心、栄誉心、慣習、私有財産、流行、虚飾、金銭欲、良き相棒、陰謀、精神の輝き、快楽、惨めさを取り除こうとしていた。ロベスピエール自身が、まさにそうした奇跡と呼ぶことを成し遂げた後に初めて、法の支配の復活が許される。

 

ああ、自分はそれほど偉大で、人類はあまりにちっぽけで、すべてを改革しようとする哀れな人びとよ。あなたたちは自分自身を変えるだけで良い。そうすれば、すべての仕事は十分である。

 

しかし一般には、改革者、立法者や政治思想家たちは、即座に人びとを専制支配しようとは願わない。いや、彼らはもっと穏健で人道的なのである。その代わりに、法における専制政治、絶対主義、全能性を要求する。つまり立法の力を求めるのである。

 

こうした奇妙な精神がいかにフランスで普通のものであるかを見るには、マブリ、レーナル、ルソー、フェヌロンの全作品、ボシュエやモンテスキューの長文を引用するだけでは十分ではない。議会の全審議過程を写す必要があるのだ。ここではそれは差し控えて、読者に参照を願うだけにしよう。

 

この考えがボナパルトにとって魅力的なものであったことは間違いない。彼は熱狂的にこれを受け入れ、精力的に実践した。自らを化学者であるとみなした彼は、ヨーロッパすべてを材料として実験を行った。しかし当然に、その材料は彼に反発した。セント・ヘレナでほとんど幻滅した際に、彼は人びとにもある程度の自律性があることを認めたようで、それほど自由を敵視しなくなったようだ。それでもやはり彼は、遺言において「統治するとは道徳、教育、福祉をあまねく拡げることである」という息子への教訓を残している。

 

これでもまだ、モレリー、バブーフ、オーウェン、サン=シモン、フーリエがどこから着想を得たのかを示す、面倒な引用が必要だろうか? ここでは

労働の組織化についての、ルイ・ブランの短文にとどめたい。「我々の計画では、社会は権力から大きな動機付けを受ける。」

 

この権力からの動機付けとは何だろうか? それはルイ・ブランの計画を押し付けることである。その一方で、社会とは人類のことである。よって、結局は、人類はルイ・ブラン氏からの動機づけを受けるのである。

 

人びとは、「彼に言わせておけ」と言うだろう。間違いなく、人類は誰からのアドバイスに従うこともできる。しかし、ルイ・ブラン氏はそうは考えていない。彼の計画は法となって、政府によって実力行使されねばならないのである。

 

「我々の計画では、国は労働法制をつくるだけでよい。(他に何があるだろうか?) それに従って産業は、完全に自動的に進展・発展する。国は、社会を坂の上に置く(それだけ)だけである。そこに置かれた社会は諸々の力と、自然の力学的な働きによって下り始める。」

 

しかし、この坂とは何か? 「ルイ・ブラン氏によって示されるものだ。」それは深淵へと向かうのではないか? 「いや、それは幸福へと向かっている。」それならなぜ、社会は坂の上にそれ自身を置かないのか? 「社会は自分が欲するものを知らず、それには刺激が必要だからだ。」誰がその刺激を与えるのか? 「政府だ。」 ならば誰が政府に刺激を与えるのか? 「体制の発明者であるルイ・ブラン氏である。」

 

この循環から逃れることはできない。受動的な人類と、法による介入によってそれを動かす一人の偉人である。

 

いったんこの坂に乗れば、社会はわずかなりとも自由を享受できるのか? 「間違いない。」 では、自由とは何か? 

 

「はっきりと言おう。自由とは単に与えられた権利なのではない。それはまた、正義と法の保護の下で各個人に与えられた、その能力を使用・発展させる力でもある。

 

そしてこれは、無意味な区別ではない。その意味は深淵で、結論は膨大である。ここで真に自由な人間であるためには、その能力を実践・発展させる力が必要だとしよう。そうすると、教育なしには人間精神は十分には成長しないため、社会は各構成員に対して適切な教育を与える義務を負うことになる。また働く道具なしには、人間活動は十全にはならない。しかしながら、もし国家による介入がないのなら、社会の構成員に適切な教育と労働に必要な道具を与えるのは誰なのか?」

 

こうして自由は力である。この力は何から構成されるのか? 「教育と働く道具の所有である。」 誰が教育を与え、道具を渡すのか? 「構成員に義務を負うのは社会である。」道具を持たない者は、誰の介入を通じてそれを入手するのか? 「国の介入を通じて。」国は誰からそれを奪うのか? 

 

この答えとその結果は、読者におまかせしよう。

 

この時代でもっとも不思議なこと、おそらくは子孫たちが大いに驚くだろうことは、こうした教義が3つの仮説、つまり人間性の持つ根本的な惰性、法の全能性、立法者の無謬性に基づいていることである。そして、これらは自分たちが完全に民主的であると主張する政党にとっても、神聖なる象徴なのだ。

 

彼らは、自分たちは社会的であると称する。

 

それが民主的である限り、それは人類への無限の信頼をおくことになる。

 

しかし社会的だという限り、人類は地を這うような存在でしかない。

 

民主主義者たちは参政権について、あるいは立法者の選出についてどう扱うのか? この場合、実際に彼らは、人びとは本能的にすべてを知っていると考える。人びとは称賛すべき分別を示す。その意志は常に正しく、一般意志は謝ることはない。参政権は、できるだけ一般的であるべきである。社会に対しては、誰も何も請け負わない。良き選択を行う意志と能力は、常に前提とされる。

 

人びとが間違えることなどあるのか? 我々は啓蒙の時代を生きているのではないのか? 何だと! 人びとを常に監督すべきなのか? 彼らはその権利を努力と擬制の結果得たのではないのか? その知性や知恵を十分に証明してきたのではないのか? 大人ではないのか? 自分のことを判断する立場にないのか? 自分の利益も認識できないのか? 誰かが、あるいはどこかの集団が、人びとの代わりに、彼らのために決定・実行する権利があるのとでも言うのか? いや、違う。人びとは自由を望んでいるし、自由なのだ。自分のことは自分で決めたいし、決めるのだ。

 

しかし、いったん選挙集会が終わると、ああ、なんと立法者の言葉が変わることか! 国家は受動性、惰性と空虚に立ち戻り、立法者は全能の力を獲得する。制度の考案、監督、命令、組織化はすべて立法者に任せられる! 人びとがすべきは、それらと共に生きることだけだ。専制の時間を告げる鐘の音がなる。

 

そしてこれは致命的なことに注意してもらいたい。人びとはごく最近の選挙では、賢明で、道徳的、完全であったのに、それらの性質は失われて劣化するのだから。人びとには自由のかけらが残る!

 

コンシデラン氏によれば、自由は不可避的に独占につながることを知っているだろうか[13]? ブラン氏によれば、自由とは競争であり、それは人びとを抹殺し、ブルジョワジーを破滅させる理由であることを知っているだろうか? この理由から、スイス、オランダ、イギリス、アメリカが示すように、人びとが虐殺され、破滅されるほどに、より自由になることはどうか? 

 

さらにルイ・ブラン氏によれば、競争は独占につながり、同じ理由によって安売りは高価格につながることは知っているだろうか? 競争が消費資源の枯渇につながり、生産の促進が浪費的な活動になることは? 競争は生産を増やし、消費を減らすことは? その結論として、自由な人びとは消費しないために生産し、競争は促進的であると同時に抑圧的であり、絶対にルイ・ブラン氏による調整が不可欠なのである。

 

さてここで、どういった自由が人間に残されているのだろうか? 良心の自由だろうか? しかし、無神論者になる自由が許されることになる。教育の自由だろうか? しかし、父たちは教師を雇って息子に不道徳と誤りを教えることになる。さらにティエール氏によれば、もし教育の自由が許されれば、それは国民教育ではなくなり、トルコ人ヒンドゥー教の視点から子供たちが育てられることになってしまう。大学が法律で縛られているために、現在の子どもたちは幸運なことに、ローマ人の高貴なる視点から育っているのである。労働の自由だろうか? しかし、それは競争であり、生産物を消費せず、人びとを抹殺し、中産階級を破滅させる。

 

商業の自由だろうか? しかし、保護主義者が嫌になるほど明らかにしたように、自由貿易の実践は人類を破滅させ、豊かになるためには自由なしの交易をしなければならないことはよく知られている。社交の自由だろうか? しかし社会主義の教えによれば、自由と社交は互いに相反するものである。人びとを強制的に交わらせるためには、その自由を奪わなければならないからだ。

 

こうして社会民主主義者の良心からすれば、自由を認めることはできない。なぜなら人間性というものは、彼ら素晴らしい社会思想家たちが正しいとするなら、すべての形の劣化と悲惨へと向かうからである。

 

ここで考えねばならない。もしこれらが本当なら、どういった理由から普通選挙が熱烈に要求されているのだろうか? 

 

こうした社会組織家たちの主張は、また別の疑問も引き起こす。これまで何度も彼らに聞いてきたが、私が知る限り、まったく答えの帰ってこなかった問である。人間の本性が悪いもので、自由を与えてはならないほどのものであるなら、どうして彼ら社会組織家たちの本性だけは、それほどに良いものなのか? 立法者やその代理人たちは、人類の一部ではないのか? 彼らは他の人類とは異なった材料からできているのか? 彼らは、人間性は歪んだものであるため、社会を放っておけば必然的に深淵へと向かうと言う。社会が坂から転げ落ちるのを止め、良い方向へと向かわせると主張する。彼らが神から人類を超越した知性と徳を与えられたと言うなら、その証拠を見せてもらいたい。彼らは羊飼いであることを望み、我々には羊であることを要求する。こうした考えは彼らの本性がより優れているという前提に立っているが、我々には事前の証明を要求する正当な権利がある。

 

注意してもらいたい。私が疑問を呈しているのは、彼らが社会組織を考案して広め、勧めようとする権利、自分たちでリスクをとって試そうとする権利ではない。そうではなくて彼らが法を通じて、つまり公的な強制と財政を使って我々に押し付ける権利なのである。

 

カベ[14]フーリエプルードンの支持者たち、学者や保護主義者たちには、自分たちに特有の考えではなく、彼ら全員に共通する考えを放棄してもらいたい。それはつまり、彼らの理由付けや思想、勉強会、その“自由”銀行制度、ギリシャ・ローマの道徳体系、貿易への反対などについて、強制力を使って我々を従わせることである。このした要求とは、彼らの計画を我々が直接的、間接的に判断して、もしそれが我々の利益や良心に反する場合には拒否することが許されることである。

 

そうした強制は抑圧的・略奪的であるだけでない。政府と税を要請すれば、組織家たちの無謬と人類の無能という破滅的な仮説に再び立ち戻ることになるからである。

 

そしてもし人類に判断能力がないというのであれば、人びとはなぜ普通選挙を求めるのか?

 

これらの考えに潜む矛盾は、これまでの事件にも反映されてきた。確かにフランス人は他国民に先駆けて人権、というよりは政治的な約束を獲得してきたが、未だにもっとも厳しい統治、監督、課税、規制、搾取を受けている。フランスは今ももっとも革命が起こりそうな国であり、そうあるべきである。

 

社会思想家たちが次のように考える限り、政府の責任は巨大となる。ルイ・ブラン氏が熱烈に語った言葉にあるように、「社会の最大の力は、政府から生じる」こと。人類は感情的に受け身な存在であり、法がすべてを与えてくれること。自分たちの知性やエネルギーでは、物質的にも精神的にもより良い方向に向かうことはできないこと。つまり人間と国の関係は、羊と羊飼いの関係と同じであると考える限りである。

 

この場合、正義、邪悪、美徳、悪徳、平等、不平等、富、貧困はすべて政府から生じる。政府はすべての責任を負い、すべてを発案し、すべてを実行し、すべてに応える。もし我々が幸せなら、国はその感謝に値し、不幸せであれば、完全な責を負う。原理的には、国は身体や財産を処分できるのではないのか? 法は全能ではないのか? 

 

国が大学の独占を認めるとき、教育の自由を奪われる家長たちの望みに応じようとする。その願いが砕かれたとき、誰のせいなのか? 国が産業規制をするとき、産業振興を図っている。そうでなければ、自由を奪うのは不条理である。産業が沈滞するとき、誰のせいなのか? 国が関税を使って貿易収支を調整・介入するとき、輸出を増やそうとする。もし増えるどころか、なくなってしまったら、誰のせいなのか? 生産の自由と引き換えに、造船会社を保護するとき、国は造船産業の発展を願っている。もしそれが財政的な重荷になったら、誰のせいなのか? 

 

もし政府が自発的にすべてのことに責任を持たないのであれば、国内には苦しみもなくなる。とすれば、どのような失敗でもフランスの新たな革命の脅威となるのは、果たして驚くことだろうか?

 

彼らの提案する、この状況への治療作とは何だろうか? 法の支配する領域、つまり政府の責任を無限に拡張することである。

 

しかし、もし政府がすべての賃金を規制・引き上げることに責任を持ち、それができなかったとしよう。すべての不幸に対する保護を提供する責任を負いながらもできない、労働者の年金を保証する責任を負いながならもできない、労働者に道具を提供する責任を負いながらもできない、融資を求める人に無利子の融資を与える責任を負いながらもできないとしよう。もし、ラマルティーヌ氏のペンが語るように、「国はその目的として、人びとの魂を啓蒙、発展、拡大、強化、霊化、神聖化する」ことができなかったなら? これらのいかにも起こりそうな政府の失敗に続いて、ああ、革命が不可避になるのではないのか?

 

ここで繰り返して言おう。優先的な問題は、政治と経済を分ける境界をどこに置くのかということである。それは、次のようなものである。

 

法とは何か? 法はどうあるべきか? 法にはどういった領域が含まれるのか? その限界はどこか? つまり、立法者に帰属するのはどこまでなのか? 

 

私はためらいなく、次のように答える。法とは不正を防止するために組織された共通の力であり、つまり法とは正義である。

 

身体や財産に対して立法者が絶対的な力を持っているというのは、正しくない。なぜなら、立法者の登場以前から身体や財産は存在していたのであり、その任務はそれらを保障することにあるからである。

 

法の目的は、我々の良心、思想、意志、教育、感情、仕事、交易、才能、喜びを支配することだというのは、正しくない。

 

法の目的は、これらのすべての領域において、ある個人の権利が他人の権利に対して優越しないことを保障することにある。

 

法は承認過程における強制力を伴うため、その正当な領域は、強制力が正当である領域、つまり正義のみである。

 

そして各人は正当な防御においてのみ、実力を行使する権利を持つため、個人の実力の集合である実力は、それ以外には使用できない。

 

よって法とは、法に先んじて存在する個人の正当な防御権を組織化したものである。

 

法とは正義である。

 

法が人びとを抑圧し、その財産を略奪することができるというのは、たとえそれが人道的な理由からであったとしても、完全な誤りである。なぜなら法の目的は、それらを守ることだからである。

 

また法が抑圧や略奪をしない限りは、少なくとも人道的ではあると言うことも許されない。それは矛盾しているからだ。法は、我々の身体や財産に影響を及ぼさざるを得ない。法がそれらを保障しないのであれば、法が存在することで、その関係は侵害となる。

 

法とは正義である。

 

この命題は明快、簡潔、完全に定義されており、無条件である。理解しやすく、了解しやすい。なぜなら正義は、不変であり、変更できない所与の質量をもつからだ。それは増やすことも減らすこともできない。

 

もしこうした限界を越えて、法を宗教的、友愛的、平等的、人道的、産業的、文学的、あるいは芸術的にするなら、即座に不確定、不確実の領域に陥ることになるだろう。人びとに押し付けられたユートピアや、さらに悪いことには、多数の自称ユートピアが併存する場所では、それぞれが法を友愛や人道で置き換えようと争い合うが、正義と違って友愛や人道には何ら確立した制約が存在しないからである。

 

それはどこまで行くのか? 法はどうなるのか? サン=クリック氏のような人物は、自分なりの人道主義をある種の産業にだけ拡張して、消費者に対して生産者を優遇すうことを要求する。またコンシデラン氏のような人は、労働者の主張を採り上げて、法は彼らのために最低限の衣服、住居、食料、その他生活の維持に必要なすべての最低限度を保障するべきだと主張する。3番目のルイ・ブラン氏は正しくも、これは単に友愛的な政策の大まかな概略にすぎず、法は労働と教育に必要なすべての道具立てを提供すべきだと言う。4番目の人物は、そうした政策であっても不平等の拡大を許しており、法はもっとも辺鄙な村落へも豊かさ、文学や芸術を届けねばならないと注意を促す。

 

こうして共産主義へと導かれる。つまり立法は、すでに現在そうなっているように、万人の夢想と欲望の戦場となるのである。

 

法とは正義である。

 

この前提において、単純で強固な政府が成立する。誰か教えてもらいたい。不正を防止するためだけに存在する政府に対して、誰が革命や暴動、あるいは単なる騒動さえも起こそうとするだろうか? そうした体制では、自己実現がより大きく達成され、幸福はより均等に広がる。人類に固有の苦しみについては、誰も政府のせいにはしなくなる。政府が人びとを苦しめていないのは、政府が天気に影響を与えていないのと同じだからだ。人びとが最低賃金、無利子の融資、労働器具、有利な関税、社会主義の勉強会などを求めて、決起して高等裁判所に押しかけたり、治安裁判所に詰め掛けたりしているだろうか? 人びとはそういった決定が裁判官の権限を越えるものであることを十分に知っており、同時に、法の権限を越えるものであることも学ぶだろう。

 

しかし、もし友愛の原則に基づいた法を制定して、すべての便益や不幸がそこから生じ、すべての個人の苦しみや社会の不平等の責任を負うと主張するなら、無限の不平、憎悪、混乱と革命の流れの水門を開けることになるだろう。

 

法とは正義である。

 

そしてもし公平の観点からそれ以外のものであるなら、それはとても不可思議なことである! 正義は権利を含むのではないのか? すべての権利は同等ではないのか? そうであるなら、どうして法は私に干渉して、ミメレルやメルン、ティエール、ルイ・ブランの社会政策に沿わせるが、反対に彼らを私の政策に沿わせないのか? 私が天から授かった想像力では、ユートピアを考案するのには十分ではないとでも言うのか? 数多くの幻想の中から1つを選び出し、それを人びとに強要するのが法の役割なのか? 

 

法とは正義である。

 

常に言われていることだが、もし法が無神論的・個人主義的で、実体のないものとなるなら、人類もまたそうなってしまうということはできない。それは馬鹿げた演繹法であり、人間性というものを法の中に見出そうという、政治への過剰な固執にすぎない。

 

そうだとするなら! 我々が自由になれば、活動をやめることになるのか? 法からの活気づけを受けなくなれば、刺激がなくなることになるのか? 法が限定され、人間能力の自由な発揮だけを保障するなら、我々の能力は惰性に支配されることになるのか? 法によって、宗教のあり方や交友関係、教育方法や働き方、貿易の仕方や慈善事業のルールが押し付けられなくなれば、すぐにでも無神論と孤独、無知と困窮、自分勝手になることになるのか? もはや神の力を認識することも、交友関係を作ることも、助け合うことも、不幸な同胞たちを愛し、助けることも、自然の神秘を解き明かすことも、自己の存在を完成させようと努力することもできなくなるのか? 

 

法とは正義である。

 

正義の法のもと、権利の支配のもと、自由と安全・安定と責任の影響のもとにおいてのみ、個人は自己の完全なる価値と存在の尊厳を実現できる。そして人間は秩序と静穏のうちに、間違いなくゆっくりと、しかし確実に、その定めとしての進歩を成し遂げる。

 

私の主張は、どのような疑問に関するものであれ、理論に裏付けられていると確信している。それが宗教、哲学、政治、経済に関するものであれ、あるいは幸福、道徳、平等、権利、資本、正義、進歩、責任、団結、財産、労働、貿易、所得、税、人口、融資や政府についてであれ、科学的な射程のどの段階においても、私は自分の研究から議論を始める。そして必ず、社会問題の解決法は自由の中に見出されるという結論に至るのである。

 

では私の主張には、経験的な裏付けはないのだろうか? 世界を見渡してみよう。どの国がもっとも幸福で、道徳的、平和なのだろうか? 私的な活動に対する法の介入がもっとも少ない国である。政府の存在感がもっとも希薄な国。個人に活気があり、世論が大きな影響をもっている国。行政組織の数が少なくて単純、税が低くて公平、世間の不満が少なく、また正当なものでもない国。個人や集団の責任が認められ、その結果、慣習が不完全な領域では、彼らが確実に状況を改善しようとする国。取引や合意、交遊関係が妨害されない国。労働や資本、人口が人為的にどこかに誤って配置されない国。人びとが、完全に自然なままに振る舞える国。神の思し召しが、人間の作為に優る国。人間の自由で自発的な行動によってすべてが達成される、そうした状態に世界で一番近い国。普遍的な正義以外の法や実力によっては、何も実現しない国。

 

付け加えねばならない。世界にはあまりに多くの偉大な人物がいる。あまりに多くの立法者、組織指導者、社会の創始者、人びとの指導者、国父たち、等などがいる。あまりに多くの人が、人びとを支配するために、自らをその上に位置づける。自らの仕事は、そうしたものだと考えるのである。

 

「そう言っているあなたも、その一人だ」と人びとは言うだろう。それはその通りだ。しかし、私の理由と視点が、まったく異なっていることは認めてくれるだろう。私が改革者たちに話しかける理由は、彼らにそうした活動を放棄させるためだけなのである。

 

私がこうした仕事をしているのは、ヴォーカンソン[15]がその機械を作ったのとは異なり、むしろ生理学者が人間の内臓を見て、それを調べ、感心するのに似ている。

 

私がこうした仕事をしているのは、著名な旅行者の精神と同じである。

 

未開の部族を訪れる。今まさに赤ん坊が産まれ、指輪や鉤爪、飾り紐で着飾った、数多くの予言者、魔術師、偽医者たちが取り囲む。ある者は言う、「私が鼻の穴を広げてやらなければ、この子は決してタバコの香りを嗅ぐことはできないだろう。」別の者が言う、「私が耳を肩まで下げてやらなければ、この子は音を聴くことができないままになるだろう。」3人目、「目玉を斜めにしてやらなければ、決して陽の光を見ることができないだろう。」4人目、「足を曲げてやらなければ、真っ直ぐには立てないだろう。」5人目、「脳みそを潰さなければ、考えることができなだろう。」旅行者は言う、「お前たちは立ち去れ。神はすでに見計らっておられる。神よりも多くを知っているなどと言ってはならない。神はこのか弱き生き物にすべての器官を与えられた。運動と経験、実験と自由のままに、それらを発達・成長させるのだ。」

 

同じように、神は人類に対して、その定めを実現するために必要なすべてを与えてくれている。ちょうど摂理による人間生理学があるように、摂理による社会生理学がある。社会的な器官は、自由の空気の下で、調和的に発展するように仕組まれている。よって、立ち去れ、この偽医者ども、社会組織家ども! 指輪や鎖、鉤爪やハサミとともに去るが良い! 人為的な手段とともに立ち去れ! 社会主義の勉強会、ファランステール主義、政府第一主義、中央集権、関税、大学や国家宗教、無利子の融資や独占的な銀行、規制や抑制、道徳主義、税を通じた平等の実現! 

 

社会はこれまで、役にも立たない数多くの理論体系を押し付けられてきた。ここで出発すべき地点で、議論を終えることにしよう。これらを拒否して、最後に自由を試してみよう。自由とは、神と神のなせる業を信じることなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

[1] 原注 1850年5月6日付け、工業生産、農業、商業の一般委員会

[2] バスティアはこの時点で結核を患っていた。

[3] 原注 フランスの産業保護が、例えば工業のような単一の階層に与えられていたなら、それは馬鹿らしいほどに略奪的であるため、維持できないだろう。よって保護された産業は一緒になり、共通の理由を語り、さらに国内労働者全体を含むように見せかけるために他の産業を勧誘さえしている。彼らは本能的に、略奪が一般的であるほどに不明瞭になることを知っているのである。

[4] 17-18世紀フランスの神学者ルイ14世の孫であるブルゴーニュ公の教育のため、風刺小説「テレマックの冒険」を書いた。オデュッセウスの息子であるテレマコス(テレマック)は師匠であるメントール(Mentor、フランス語で師匠の意)と共に旅をする。

[5] セールは16,17世紀フランスの著名な農学者。1600年に、ワイン生産を含む農業を扱った「農業全書(Théâtre d'Agriculture)」を出版。

[6] ウィリアム・ペンは17世紀アメリカ大陸のクエーカー教徒であり、イギリス植民地時代にペンシルバニア州を整備した。

[7] 16世紀のパラグアイでは、イエズス会が布教村落を統治していた。

[8] ギョーム=トマ・レーナルは18世紀啓蒙主義の文筆家。

[9] ガブリエル=ボノ・ド・マブリは18世紀の平等主義、共産主義、共和主義的、啓蒙哲学者。

[10] ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン=ジュストは、革命指導者。ロベスピエールの片腕として活躍。

[11] ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌは革命指導者。

[12] ルイ=ミシェル・ルペルティエはフランスの名門出身の政治家。ルイ16世の処刑に賛成し、後に暗殺された。

[13] ヴィクトール・コンシデランは空想的社会主義者。

[14] エティエンヌ・カベは空想的社会主義者であり、イカリアというユートピアの建設を模索した。

[15] ジャック・ド・ヴォーカンソンは18世紀の発明家。オートマタと呼ばれる多くの自動機械や自動織機を作った。