先日は、Boldrin and Levine の中から、 「James Watt のパテント工作によってやたらと蒸気機関の進歩が遅れた」という部分を要約、あるいは解説したいと書いた僕ですが、遅れてばかりですいません。著者たちは against intellectual property ということで、著作を完全公開しているので、これは必ずや 近いうちにやってみたいと思います。
僕は先日、Bastiat の「見えるものと見えないもの」を経済学習のテキストにすればいいのではないかという人と会いました。そこで、そうすべきかはさておき、僕的にも訳が読みにくいので、もう少し改善したいという約束をしました。ということで、実験など別の研究も継続しつつは、しばらくの間、もう一度バスティアに時間をさくことにしました。
さて、再選された菅直人氏が雇用創出による成長政策を掲げるのを見ると、160年前のバスティアがそれを批判していることは明らかです。おそらく、僕が経済史に疎かったこともあるのでしょうが、保護主義的な政策や、成長政策、その他はすでに第三共和国の民主主義時代に、すでに有権者の人々に訴えかけていたというわけなのです。
それが、160年後の現在もまったく同じように人々に訴えかけているのは、不思議でもありますが、また逆に必然性があるのでしょう。それは経済学(一般均衡理論)の非直感性、であり、あるいは、経済行為や市場の非道徳性、であるのだと思います。これをどうしたものか、これは僕にもわからないのですが、alah なんとも感慨深いものです。
おそらく功利主義そのものがなぜ道徳的に多様な批判を受けてきたのか、ということと無関係ではないでしょう。来年以降に、またそういった本を読んでレヴューをしてみたいと思います。