kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

浮遊者さんとの科学問答

僕は個人的にfuyu-syaさん

http://d.hatena.ne.jp/fuyu-sha/

とメールをやり取りしているのだが、suggestされた本を読んだりもしている。それで、「証拠に基づく事実」の重要性について感じたことを、以下のようにメールをお送りした。パラサイコロジー、民間療法なんかの類については、僕は凡庸な科学的直感からしてほとんど全否定なのだが、あるいは何かがあっても不思議ではないのかも。

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ちょっと書き忘れましたが、エヴィデンスに基づく、という概念について、もう少し書かせてください。

僕も当然に科学はそうあるべきだと抽象的には納得しているのですが、現実には難しい部分があるとも理解しているつもりです。よく言われることですが、僕らの多くは「観察自体の理論負荷」を持っていて、自分にとって既知の理論にあわないもの排する傾向があるからです。特にこれは、理論を理解しがちな人(いわゆる頭のいい人)ほど強いように思われるのが問題です。


ウェゲナーの大陸移動説も、地殻移動の原因となるマントル対流が理解されていない状態では、空想ではないか、と考えるのはなるほど自然な気もします。


同じことですが、ゼンメルワイスの時代は細菌を見ることができなかったわけだから、むしろ理論的には否定するほうが自然な気がします。当時としては、統計が語っているという事実だけで納得することができる人は、むしろよほど謙虚な、あるいは虚心坦懐にデータを見ることができる人だけだったことは理解できます。


超音波の理解ができない時代に、コウモリが暗闇で飛行できるのを、どうやって説明するのか?あるいは、今は電磁波を使って通信する動物は知られていないようですが、hammerhead sharkなどは、餌になる小型生物の体内の電磁波を検知するセンサーを持っているからには、人間でも、体内の電磁波で、あるいは気分の伝達くらいのテレパシーができるかもしれない。


こうして考えてみると、透視や予知能力なんかを専門に研究している、イギリスにあるparapsychology系のジャーナルなんかも、証拠だけからすると、あるいは否定できなこともあり得るとは思います。しかし、現実にはほとんどすべての物理学者は、予知能力なんかは、既存の物理学と全く不整合であるとして、可能性レベルから否定しています。正直、僕も圧倒的にそう感じています。


あ、関連して、昔、民間療法に「瀉血療法」というのがあったと思います。ヒルに吸血させるのが意味があるとも思っていなかったのは当然なのですが、割と最近、「瀉血することによって、血液中のヘモグロビン濃度が低下する。それによって、鉄分を必要とするバクテリアなどの増殖が若干下がるために、ある種の病態の改善には、体力を消耗しない程度では、瀉血の効果が生じる」という説を聞きました。


僕は、実のところ、この説についてリサーチをしたことはないのですが、わずかでも最もらしい理屈がつくと、それなりに評価してしまうのが不思議です。もっともホメオパシーに理屈があるとも聞いたことがないのですが、、、、


さて、本筋に戻って、医学での「過剰な理論負荷」への警告の存在の理由のひとつには、医学や工学はそもそも何かの目的が最初にあって、それに役立てばオーケーという価値観もあると思います。物理学などは理論先行なので、どれだけ反証しても、既存の理論に取って代わる理論が提示されないと、けっしてパラダイムシフトしたりはしない。経済学も、(少なくても新古典派経済学は)この意味では物理学の数理論的な美にとりつかれているので、同じ過ちを犯している可能性は高そうです。


理論というのはしかし、ある観察を別の状態にも当てはめるための不可欠な枠組みでもあるし、理論なしではこれまでの科学の発展もなかったでしょう。だから、既存の理論に合わない観察を否定しないというのは、ひじょうに難しいことなのだと思います。そういったバランス取りは結局は、アートなのでしょうね。