労働価値説 その3
こんにちは。
さて労働価値説が正しいと感じられることには、2つの理由があるんじゃないかと考えている。
1つ目は、大域的に見ると、ある程度は労働価値説には説得力があるという事実だ。例えば、ポルトガルのワイン製造とイギリスの綿織物生産にどれだけの労働力が要るのか? という問いを立てると、「まあ、何人いればどれだけをつくれるか」という生産費のおおよその見当がつく。ほとんどの労働は時給いくらというカテゴリーに入る、あるいは可換的なのだ。
というわけで、起業家の活動やスポーツのスター選手はさておき、われわれのほとんどの労働活動なんて個別に考えるほどの価値がない。例えば、経済学の大学教授の教授職なんてほどんどすべての労働が「学生のお世話」と「学校事務」なので、どんなサラリーマンでも即座になきることに疑いはない。というわけで、我々のほとんどが起業家にはならず、「どこかいい会社(組織)で時給の高い楽な仕事につきたい」と考えることからすれば、それが少なくとも労働価値説という認識に基づいているわけだ。
ということで、大域的に労働価値説は正しい、言い換えるなら経済全体の中で大まかに当てはまっているといえるのだろう。
2つ目は、さらに素朴なもので、「ある人の働きは、別の人と同じようである」という事実や、その認識ではなくて、「そうあるべきだ」という人間のもつ直感的な価値判断である。
部族社会に生きていれば、大きな不平等は直接的な軋轢を生む。人が人を殺すことはかなり簡単で、また集団全体の力を失わせるので、資源配分の偏りを不正とみなす直感が発達するのは自然だ。 ということで、「~~であるべきだ」という道徳的な判断から「~~である」という(論理的には誤った)認識が生まれる(逆自然主義の誤謬)。 おそらくはこの神経回路そのもののあり方が、労働価値説をサポートすることになるわけだ。
ということで、労働価値説が古典派で支配的であったことにはそれなりの理由がある。だからといって正当化できるわけでもないが、まあ、そういった学説史的な事実を理解することには納得できるだろう。
というわけで、今回は労働価値説の用語ではなくて、それが支配的になった理由について書いてみた。以上。
_