kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

預金契約の任意・自発性

通貨・銀行信用・経済循環

通貨・銀行信用・経済循環



こんにちは.


友人から,「おまえの訳したデ・ソトの著作では,銀行預金契約では銀行による寄託金の流用を禁止されるべき,などと主張している.しかし,そもそも自由主義者は物理力による強制以外の自由契約はすべて許されるはずではないのか? 矛盾しているだろう」という,スルドイ指摘をいただきました.


ここには,まさに問題があります.


ディヴィド・フリードマンやあるいはマレー・ロスバードなどのアナルコ・キャピタリズムは合法的な政府を認めていませんから,政府による禁止というのは,そもそも否定されることになります.また,今回僕が訳したデ・ソトによる「通貨・銀行信用・経済循環」の立場のように,オーストリア学派(のほとんど)は最小限の政府の正当性を認めたうえで,政府による銀行への寄託金流用という特権は,廃止されるべきだと言います.


そこで,こうした主張の論理的な整合性については,整合しえる・し得ないを含めて,いくつかの立場が考えられるのでしょう.次のような考えが一番整合的なように感じます.


まず,ハイエク的に「制定法」と「自然法」を分けて考え,そもそも銀行による預金の流用は,自然法として認められない(殺人契約と同じ)ため,政府があってもなくても,同様に否定されると考える.この考えによると,現在のように政府が存在することを前提とするなら,政府はそうした流用を禁止すべきだし,仮に無政府資本主義の社会が実現する場合も,自然法的な法秩序において,銀行による預金流用は否定されることになります.明言はしていませんが,著者デ・ソトはこの立場に立っているようです.(なぜって,彼は無政府主義者であるロスバードを敬愛していますから.)


次に,ミーゼス的に自由銀行主義の立場をとり,銀行の契約の自由を認める立場もありかもしれません.この場合,契約の自由を認めるなら,人びとは,利子がつかず預金料金を取るような銀行を使わず,むしろ預金に利子をつけてくれるような現行の普通預金制度を利用するでしょう.この立場はしかし,銀行信用の部分準備制度が永続化する可能性が高い,いやほとんど間違いなくそうなるという問題があります.


僕はあまり外部性を強調する考えは好みませんが,これはつまり温暖化ガスと同じような「共有地の悲劇」なのでしょう(ここでは地球温暖化の問題は通常のマスコミの言うとおりであると仮定して議論します).誰もが自分の利益を追求するが,その結果は全員が損をしてしまうような囚人のジレンマ状況であるわけです.


銀行信用という通貨の伸縮性が経済変動をもたらすとしましょう.だとしても,この命題自体が一般的には共有されていないし,検証されてもいません.そのため,かつて温暖化ガスがそうであったように,そもそもそうした銀行活動が外部不経済をもたらしていることはまったく理解されていないわけです.


いつの日かこうした状況が変化して,実際に銀行預金制度が経済循環を引き起こしていると検証され,広く認識が共有されるまでには長い時間がかかるだろうし,銀行業界は世界中でひじょうに大きな利益団体になっているので,果たしてそうした業界を規制することができるのかは大きな課題です.


つまり,通貨というものの交換手段としての性質からして,銀行が預金を流用することで,その量を自由に伸縮させることができるという制度からは,大きな負の外部性が生じています.政府がこれを(自然法的な観点から)規制して,銀行には預金の流用を許さないというのが一つの解決法です(「通貨・銀行信用・経済循環」での提言).


はるかに難しいのでしょうが,また別の解決法は,bitcoinが世界の唯一の通貨として(各国政府の強制力を超えて)流通するようになることです.これが実現すれば,政府への税金その他の国家的な強制支払いに対しては,皆が一般的・日常的に利用しているbitcoinを各国通貨(円やドルなど)に替えて,支払うようになります.両替がいらなくなるだけでも大きな意義があると思うのですが,マネーロンダリングがそもそも「不正」なものであると考える人には,国家主義によってすべての個人の所得・資産が補足される社会よりも,かえって危うい社会だと感じられるようです.




_