Money, Bank Credit, and Economic Cycles (LvMI) (English Edition)
- 作者: Jesus Huerta de Soto
- 出版社/メーカー: Ludwig von Mises Institute
- 発売日: 2012/04/03
- メディア: Kindle版
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皆さん,こんにちは.
さて今日ついに校正を終えて,訳者としては全力を尽くしたという感じです. で,何度も全力で読み返して感じたことを少し.
なぜミーゼスの経済循環理論=オーストリア学派は,主流派とならずに,かえって主流派のマクロ経済学からあたかもカルトのように扱われるに至っているのか? 言い換えるなら,ケインズ以前,つまり戦前のマクロ経済学ではかなり主流派となりつつあったオーストリア循環理論が,どうして戦後急速に非主流化したのか?
これは難問です. 僕自身の学問的な態度とも関連して,いつくか思いついた理由を書いてみます.
1. 主流派は,戦後急速に数学的な色彩を強めていったこと.これはおそらくサムエルソンなどの数学に明るい学者が,それまでの「あーだ,こーだ」という経済学に変わって,数学的に定義された前提から演繹するような経済学全体の革命が起きたということです.数学の能力は専門家同士の会話もわかりやすいので,若手が議論をしたり,能力を示したりすることが容易になります.
これにはさらに補題があって,ミーゼスやハイエクをはじめとして,数学的な議論や,統計学の利用に対して大きな懐疑があったわけです.これでは,もっと科学的・実証的な議論をしたいと考えた学者は引いてしまいます.なんとか統計学などをうまく取り込んだ形で理論を構築・補強しないと,純粋に観念論的=哲学的な議論を超えることはできず,何が正しいのかについては堂々巡りになってしまいます.オーストリア学派の反数学への態度はロスバードなどではもっと強くなって,ほとんど「均衡状態は実現していないのだから,そうした考えは無意味だ」ぐらいの強い否定になってしまっています.こうした強い否定的な表現によって,均衡分析を数学的に証明することを中心とする主流派とは絶縁していることが残念です.
2. もう一つは,オーストリア学派の態度には,政府の活動を認めようとする学者への「人格的な侮蔑」というものが感じられる点.僕も政府活動はおしなべて快く思ってはいませんが,常識的な感覚の中には「政府の役割」を重視する人の直感=実感もあります.別にそうした隠れた社会主義者(by Mises)の人格がおかしいとも感じないのですが,オーストリア学派の論文の中では,サムエルソンやフリードマンがいかに社会主義的な政府肯定論者であるかを告発しあうことが美徳とされているのが残念です.
これにも補題があって,つまりオーストリア学派の問題点は,イスラム原理主義と同じようなある種の原理主義にあるのでしょう.そうした態度は,わずかでも異なる意見をもつ学者の極端な弾劾と排斥につながります.これがケインズ主義者やマネタリスト,New Classical, New Keynesian などといった主流派の経済学とオーストリア学派が交わらない理由になっているのだと思います.フリードマンはケインズ主義を否定はしても,その理論や言葉に対して,互いに理解し合える言葉で反論しています.つまり論争はあっても,互いに経済学会では活発に議論しあっているのです.これがオーストリア学派の場合,ハイエク以降は完全に分離してしまっています.そういえばBryan Caplan もそういった意味での問題を指摘していました.
というわけで,虚心坦懐に考えると,ハイエクの資本理論には非常な説得力がありますが,それはアメリカの経済学者にはまったく受け継がれていません.ウーン,この点はデ・ソトも若干指摘していますが,もっとオーストリア学派はGDPの測定や統計を活用すべきだし,数理モデルを構築してゆくべきだと思います.単純に,「経済モデルなどが作れるとするなら,社会主義も可能であったはずだ」というふうに批判してしまうと,リサーチ・アジェンダ全体がミーゼスの著作に対する,ほとんどマルクス主義的な「読み込み」や聖書の解釈学になってしまうように思われます.
と否定的な要素は書いたものの,それなりの近い将来には次第に経済学の中で融合してゆくのではないかと楽観しています.戦争や科学などと同じように,歴史には多様な人的な偶然が関与していて,それは経済学史においても同じなのだと思います.
大多数の経済学者は,銀行信用=預金の流用が伸縮的な通貨をもたらし,それが経済変動と関連しているという考えを読んだこともないし,おそらく(大学で職を得た後には)興味もありません.RBCの生産性ショックとは一体何を意味しているのか? ケインズのいうAnimal spiritの変動はなぜ生じるのか? それはファッションの流行と同じように人びとの(グラフ理論的な)気分の変化であり,科学者にとって永遠の謎のままに終わるのか?
(なお,僕は日本人ではオーストリア学派をなのる(若手)経済学者を一人も知りません.それは当然で,学会から認められていない超マイナーなことをやっても,検証・反証フカノウな社会科学では,大学に職を得られないからです.これは深刻な問題で,例えばナチの時代のドイツ語圏では自由主義者は亡命するしかありせんでした like Mises. 同じように,さらに悪い状況としては中国には権力を離れた自然科学も,もちろん社会科学も何一つありません.というわけで,「政治」とは異なる,経済的なパトロンが必要なのは明らかなように思うのですが,,, でもゲイツが400億ドルを運用することに批判はあっても,政府が2兆ドルを運用することには,はるかに批判は少ないのはフシギです.おそらく,我々の精神とその神経基盤には「公共性」の概念がよほど深く刻まれているのでしょう.)
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