kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ライサンダー・スプーナー「自然法=正義の科学」

ライサンダー・スプーナー 
自然法,あるいは正義の科学」

‘(訳注:以下Left and Right (主にロスバードによって書かれ,編集された雑誌)に書かれた解題)

ライサンダー・スプーナーは,政治思想の歴史において多くの偉大な側面を持っていた.その一つは,彼は,立憲主義的な弁護士から個人主義的なアナーキストへと変貌していった歴史上唯一の人物だったことである.もう一つは,年をとるに従って,彼は次第に,そして容赦のない急進主義者になっていったことである.ベンジャミン・R・タッカー(Benjamin R. Tucker)が1881年に,輝かしい定期刊行誌リバティ(Liberty)を創刊して以来,スプーナーとタッカーは,盛んになっていった個人主義アナーキズム運動における双頭の偉大な理論家であり,そうした状況はスプーナーが1887年に79歳で死ぬまで続いた.

 スプーナーと,より若いタッカーはある重要な一点において,そしてその一点においてのみ異なった意見を持っていた.タッカーは厳格で断定的な功利主義者であった反面,スプーナーはその自由の信念の基礎を,自然権自然法の哲学に置いていた.残念なことに,スプーナーの死によって,タッカーだけがアナーキズム運動に影響を与えるようになり,功利主義的な信条が急速に広がり,スプーナーの自然権的なアナーキズムは背景へと消えていった.今日アメリカやイギリスでスプーナーとタッカーを信奉する人たちもまた,スプーナーの自然権的な基礎づけを忘れ,はるかに不安定で浅薄なタッカー的な個人主義功利主義に頼ってきた.

 ライサンダー・スプーナーは1882年に「自然法,あるいは正義の科学」を,パンフレットとしてボストンのA・ウィリアムズ・アンド・カンパニーから発行した.パンフレットは当時のアメリカおよびヨーロッパのアナーキストに大きな影響を与え,出版以来3年の間に3版を重ねた.スプーナーはこのパンフレットが,自由の自然法についての包括的な大著の序章となると意図していたが,政治思想史にとって大きな悲劇だったのは,彼が予定していた体系を完成する前にこの世を去ったことである.しかし現存する著作にも,永久的な価値が存在する.なぜなら,すべてのロック主義的な自然権理論家の中で,スプーナーただ一人が理論を論理的,極限まで急進的な結論,つまり個人主義的なアナーキズムにまで突き詰めたからである.

 スプーナーの痛快な著作をさらに熟読しようとするなら,彼の「反逆にあらず(No Treason)」と「トーマス・F・ベイヤードへの手紙」を読むことによって,大きな満足が得られるだろう.これらは一緒に「反逆にあらず」という題名で,パイン・ツリー・プレス(Pine Tree Press, Box 158, Larkspur, Colorado)から1ドル50セントで発売されている.

 以下は,スプーナーのパンフレットの省略されていない,完全な文章である.彼を特徴付けるパンフレットの副題は,「自然法,自然の正義,自然権,自然の自由,そして自然の社会の体系.一切すべての立法は愚行,簒奪,犯罪であることの証明」であった.スプーナーはまた,もう一つ特徴的な文章を付していた.「このパンフレットの著作権は著者にある.自然法原理においては,著者や発明者がその考えについて永続的な所有権を持つと信じるからである.」




正義の科学

1.

私のものとあなたのものについての科学,つまり正義の科学はすべての人権の科学である.またすべての人格権や所有権,生命・自由・幸福追求の権利についての科学である.

 この科学だけが他人の権利を害することなく,人が何をすることができるのか・できないのか,何を所有できるのか・できないのか,何を言えるのか・言えないのかを教えてくれる.

 それは平和の科学であり,唯一の平和の科学である.なぜならそれによってのみ,人類が互いに平和に暮らすことができる,あるいは平和に暮らせるであろう条件を教えてくれるからである.

 そうした条件は,簡単に言って以下の様なものだ.つまり第一に,各人は他人に対して正義によって要請されることをなさねばならない.例えば,借金を返すこと,借りたものや盗んだものを所有者に返すこと,他人や他人の財産に対する損害を弁償すること,である.

 第二に,各人は,正義が禁止することは,何であれ行ってはならない.例えば,窃盗,強盗,放火,殺人,その他の他人やその財産に対する犯罪をしてはならない.

 こうした条件が順守される限り,人は互いに平和であり,その平和を維持できるだろう.しかしこうした条件のどれかが破られれば,闘争状態に陥る.そして再び正義が実現するまで,闘争状態は続かざるをえない.

 歴史を見る限り,すべての時代において,人が互いに平和に暮らそうとしている場所では,人類の本能と集合的な知恵によって,この唯一の普遍的な義務の遵守が,不可欠の条件として承認され,推奨されてきた.つまり,他人に対して誠実に生きるという原則である.

 古くからの格言は,同胞に対する法的な義務の総和は,単純に次のようなものだという.「誠実に生きること,他人を傷つけないこと,各自が権利を持つということ.」

 この格言全体は,実際には一言で表すことができる.誠実に生きよ.なぜなら誠実に生きることは,他人を傷つけないことであり,各自が権利を持つことだからである.
2.

 疑いなく,人はその他にも仲間に対して多くの道徳的な義務を負っている.例えば,飢えたものには食べものを与える,裸のものには着るものを与える,住処のないものにシェルターを与える,病人を看病する,弱者を守り,助ける,無知な人を啓蒙するなどである.しかしこれらは単に道徳的な義務であり,各人が個別の場面について,そうした行為をするかしないか,どの方法で,どの程度できるか,実行するかについて,自ら判断する.しかし法的な義務,つまり他人に対して誠実に生きることについては,他人が判断することが可能なだけでなく,自身を守るため他人が判断しなければならない.そして必要があれば,彼らは個人に強制させることさえも正当であるかもしれない.彼らは一人で,あるいは協力してそうした行為を行うことができる.もし必要であれば即座に,あるいはもし彼らがそれを望み,必要であれば周到かつ,制度的に行うこともできる.

3.

 個人や集団の誰にとっても,自分や被害者のために不正義を排し,正義を強制することは権利である.けれども,慌てて感情的に実行することから生じがちな誤りを避けるため,また実力行使をしなくても,守られた状態で安心して暮らすには,互いに連帯しあうことが望ましいことは明らかだ.自由に,自発的に連帯関係を結び,自分たちの内部で正義を維持するためだけでなく,外部の犯罪者から相互に守りあうのである.また最も望ましいのは,彼らが法手続きの予定や体系についての合意を交わすことである.そうすれば,裁判においては注意深く,慎重で徹底的な調査がなされ,できるだけ外部からの影響を受けない,正義が実現可能になる.

 しかし,そうした連帯である協会が正当であり,望ましいのは,それが純粋に自発的である限りである.その意に反して誰かを協会に強制的に加入させること,支持させることは不正である.各自の利益,判断,良心だけによって,自分がどれかの連帯に加入するか,あるいはしないかを決めなければならない.もし自分の権利を守るために自身の力だけを使い,もし必要な場合でも他人から無料で提供される助けだけに頼ることを選ぶのであれば,彼にはそうする完全な権利がある.そしてこうした選択も,彼自身が人としての普通の用意ができているなら,つまり同じような場合には負傷した人を守り,助けるなら,そして「誠実に生き,他人を傷つけず,他人の権利を認める」なら,かなり安全な暮らし方だろう.なぜなら,そうした人には,何らかの連帯に加入しているかどうかにかかわらず,必要になった際には十分な友人や擁護者が存在することはほとんど確実だからである.

 当然,提供される防御を望ましく思っていないような協会に加入したり,支持したりする義務を負うことはない.またある人が,連帯の手続き計画ややり方が目的とする正義を実現するために是認されるようなものではなく,それ自体が時には不正をなすことを避けられないと考えるとしよう.その場合,彼がそうした協会に加入し,支持することはありそうもないし,正当に期待することもできない.非効率的に違いないと考えられるような協会に加入,支持するのは,馬鹿げている.それ自体が不正を行うと考えるような連帯に加入,支持するのは犯罪である.よって人には,防衛目的,あるいはその他の目的の連帯に対して,自らの利益,熟慮,良心に従った加入・不加入の自由が与えられねばならない.

 不正に対する共同の防御のための協会は,火事や船の沈没に対する共同の防御の協会のようなものだ.そして,個人の意志や判断,良心に反してそうした協会に強制的に加入させることには,本人が望まない利益を与たり,あるいは本人がその方法を是認していないような,その他の協会に強制的に加入させることと同様に,何らの正当性も合理性もない.

4.

 こうした自発的な協会に対しては,それが正義を維持するため,そして不正を回避するために必要な科学としての正義の知識がないからといって,反対することはできない.誠実,正義,自然法は,普通は極めて明快で簡単な事柄であって,普通の人にとっても容易に理解できる.もしそれが個別の場合にどういったことであるかを理解したければ,ほとんどの場合にはそれほど深く考える必要はない.たしかにそれは,他の科学と同じように学ぶ必要はある.しかしそれはとても容易に学べるものだ.それを適用する機会は,人間相互の関係や活動と同じように無限に存在するが,それでもそれは,すべての一般人がほとんど直感的に認識しているような,単純で基本的な真実と正義の原則から成り立っている.そして,ほとんどすべての人は,推論の基礎となる事実を同じように理解している場合には,何が正義を構成するか,そして正義が何を要請するかについて同じ認識を持っているのである.

 互いの接触と交友関係がある人々は,仮に望まないとしても,かならず自然法を非常に深く学ばざるをえない.人と人との取引においては,異なる所有物と個人的な欲求があり,自らの信じる権利を要求・主張し,自分の権利だと信じるものへの侵害を反抗・抵抗する傾向がある.そのため,その心中には常に疑問が生じることにならざるをえない.「これは正しいのか?」,あるいは「これは不正なのか?」,「これは私のものなのか,彼のものなのか?」.そしてこれらは自然法についての疑問であり,ほとんどの場合において,普遍的な人間性によって答えられるのである .

 子供はとても早くから自然法原理を学び,以下のことを理解する.正当な理由もなく,他人を殴ったり傷つけたりしてはいけない.別の子供を勝手に操ったり,支配してはいけない.他人の持ち物を,暴力や欺き,あるいはこっそりと奪ってはならない.もし誰かがこうした悪事をはたらけば,被害を受けた子どもには抵抗し,必要があれば罰を与え,弁償させる権利がある.それだけでなく,その他の子どもや人たちにも,被害を受けている子どもを守り,誤りを正す権利と道徳的義務が生じる.これらは自然法の根本原則であり,人びとの相互の関わりを規律する.それでも子どもは,3足す3が6であり,5足す5が10であることを学ぶよりも早くそれらの自然法を学ぶ.子どもたちの遊びでさえも,そうした原則なしには成立しないだろう.そして同じように,どんな年齢の人びとであっても,どんな状況でも一緒に平和に暮らすことは,そうした原則がなくては不可能である.

 すべてではなくとも,ほとんどの場合,若かろうが年をとっていようが,人びとはこうした自然法について,「自然法」という言葉の意味を学ぶ以前に,すでに知っているということさえできるだろう.実際,もしあるものの性質を理解しなければ,それを表す言葉の意味を理解することはできない.正義や不正という言葉を,それらの性質を知る前に理解させるということは,熱,寒い,湿った,乾いた,光,暗さ,白い,黒い,一つ,二つ,などの言葉の意味を,そうした言葉の意味する性質を知る前に理解させようとすることと同じである.人はこうした物質と同じように,ある事柄を記述するための言葉の意味を知る以前に,感情や考えを知っておかなければならないのである.

5.
 もし正義が自然の原理ではないのなら,それは何の原理でもない.もし正義が自然の原理ではないのなら,正義などというものは存在しない.もし正義が自然の原理でないのなら,太古の昔からこれまで正義について語られ,書かれてきたことのすべては,もとから存在しないことについて語られ,書かれてきたことになる.もし正義が自然の原理でないのなら,これまで我々が聞いてきた正義への訴求や見てきた正義への戦いのすべては,現実ではない想像上の虚構,単なる空想に向けての訴求と戦いであったことになる.

 もし正義が自然の原理でないのなら,不正などというものは存在しない.そして世界で起こってきたすべての犯罪は,まったく犯罪などではなかったことになる.それは単なる降雨や日没のような出来事であり,被害者は川の流れや植物の成長に対して不平をいうことができないのと同じように,それらに対しても文句をつける理由がないことになる.

 もし正義が自然の原理でないのなら,(いわゆる)政府には,その他の虚構と同じように,認められる,あるいは認めると考えたり,振る舞ったりすることには,何の権利も正当性もない.政府が正義を認識・確立・維持するという主張は,愚か者の戯言か,別人による詐欺でしかないのである.

 しかし,もし正義が自然の原理であるなら,それは必然的に不変のものである.それは,正義を創りだした力に劣るような力によって変化することはなく,重力や光の法則,数学の原理その他の一切の自然法則と同じように変えることはできない.そして人間個人,あるいは政府などと呼ばれる集団が,人間活動をルールとして,正義に代えて自分たちの命令,意志,快楽,配慮などに頼ろうとする試みは,馬鹿げた強奪行為であり,専制である.それは世界のすべての物理的,心理的,道徳的な法則に代えて,自分たちの命令,意志,快楽や配慮に頼ろうとすることと同じだ.

6.
もし正義の原理というものが存在するなら,それは必然的に自然原理であり,そうである以上は,他の科学と同じように,それを学び,適用することは科学の問題である.そして立法によって何かを加えたり,差し引いたりすることを語るのは,立法によって数学や化学などの科学に何かを加えたり,差し引いたりすることを語るのと同じように,馬鹿げており,滑稽である.


7.
 もし正義の原理というものが自然にあるのなら,その究極の権威に対しては,すべての人類による立法によってさえも,何も加えることも,差し引くこともできない.そしてどういった形であれ,その権威に何かを加えたり,差し引いたりしようとする人類,あるいはその一部による試みることは,すべて誰の義務でもない.

8.
 もし正義という原理,あるいは自然法があるのなら,それはすべての人が生まれた時にどういった権利を持っており,どういった権利が人であることに固有のものであり,必然的に生涯を通じて持つのかを教える原理,あるいは法則である.それは踏みにじられることはあっても,消去されたり,消滅させたり,抹殺されたり,あるいは人であることから分離・消去されたり,その固有の権威や義務を剥奪されたりすることはあり得ない.

 その反対に,もし正義の原理,または自然法などというものがないのなら,すべての人はこの世界に完全に権利を持たずに生まれてくることになる.そして権利を持たずに生まれてくる以上,必然的にそうした状況に留まることになる.なぜなら,もし誰もが権利を持たずにこの世に生まれてくるなら,明らかにその人は自分の権利を持っていないし,他人に何の権利を与えることもできないからだ.その結果,人類は何の権利も持てず,彼らの権利などというものについて語ることは,過去にも未来にも有しない存在しないものについて語ることになる.

9.
 もし正義の自然原理があるなら,それは必然的に至高の存在であり,その結果,関連する事柄のすべてに関する唯一の普遍的な法であることになる.そしてその結果,すべての人間による立法は常に,本来ならば存在していない仮設的な権威と支配でしかないことになる.よってそれは常に,単なる権利の侵害,馬鹿げた愚行であり,犯罪である.

 その反対に,もし正義の自然原理というものがないのなら,不正というものもないことになる.もし誠実などという自然原理がないのなら,不誠実というものもないことになる.ある人が別の人やその所有物に対して,どんな実力行使や詐欺を行ったとしても,それが不正・不誠実であると不平を言ったり,禁止したり,処罰することはできない.つまり,もし正義の原理というものがないのなら,犯罪行為は存在しないことになり,政府が犯罪の処罰と抑止という主張は,そもそも存在しない,し得ないものに対するものになる.よってそうした主張は,犯罪に関する限り,すべきことについても,できることについても政府の必要性は存在しないと言っているのである.そうした政府は犯罪の処罰や抑止のために存在するという主張は,その性質上,不可能なのだ.

10.
 もし自然界に,誠実さという原理,私のものやあなたのものという言葉で記す原理,人やものについての自然権の原理などの正義の原理が存在しているなら,不変で普遍的な法が存在することになる.それは他の科学と同じように学ぶことができ,それと矛盾するすべてに優越・排除する.正義と不正,私のものとあなたのもの,人権や所有権,私の他人の人権や所有権の境界を教えてくれるものである.それは至高,不易,普遍,永久の万民法であり,未来にわたって人類が続く限り,唯一至高の法である.

 しかし反対に,もしそうした正義,誠実,自然権や所有権などの原則が自然界に存在しないのなら,正義や不正,誠実や不誠実といった言葉,私のものやあなたのものといった所有権を記す言葉,傷害や犯罪を表す言葉はすべて,人類の言語から意味を成さないものとして追放されなければならない.そして即座かつ永久に,これからはもっとも強大な軍事警察力と巨大な詐欺行為こそが,人間相互の関係を規律する唯一至高の法であると宣言されねばならない.そしてそれ以降は,自らを政府と呼ぶものたちが,できる限り互いに力を競いあい,騙し合い自由を得ることになる.

11.
 もし正義の科学が存在しないなら,政府の科学も存在することはできない.すべての時代の国家によって,少数の悪人たちが共謀して,貪欲,暴力によって他の人びとを支配し,彼らに貧困と隷属を強いながら,自分たちを政府と呼んで支配を続けた.そうした貪欲や暴力による政府は,未来に生じ得るどんな種類の政府とも同じような正当性を持つことになる.

12.
 もし正義の原則が自然界に存在しているのなら,それは必然的に,唯一存在し,し続ける政治原理である.人間が発明し続けてきた,その他のいわゆる政治的な諸原則は,まったく原則などではない.それらは,なにか真実・正義・普遍的な法よりも良いものを見出したと想像するような,単なる愚か者の欺瞞であるか,あるいは自分勝手で不実な人物が名声や権力,金銭を得るために使う手段や偽装なのである.

13.
 もし自然界に正義という原理が存在しないのなら,複数の人間に間の論争が,相互に順守義務を負う形で解決されるような道徳的な基準は存在しない.そして結果的に,人類は永久に戦争しあう運命を避けられなくなる.永久に盗み合い,奴隷化し合い,殺しあうことになり,紛争を終わらせるには欺きと暴力しかないのである.

14.
 もし正義という義務が存在しないのなら,当然,真実,慈悲,その他の道徳的な義務も人類には存在しないことになる.よって正義の義務を否定することは,人間の相互関係におけるすべての道徳的な義務を否定することである.

15.
 もし正義という原理が存在しないのなら,世界は単なる道徳的暗黒の谷間でしかない.太陽も,光もなく,人びとが相互に為すべき規律についての義務もない.つまり,もし自然界に正義という原理が存在しないのなら,人間は道徳性を持たず,その結果,どういった道徳的な義務も持ち得ないのである.

立法と対比した自然法

1.
 自然法,自然的な正義とは,人びとに起こりえるすべての紛争の正しい解決に適用できる原理であり,また唯一の基準である.それは他人に押し付けようとするかどうかにかかわらず,誰もが求める自己防衛の原理である.それは不易で,いついかなる時も,時代や国家を問わず同一であり,万人に不偏・公平,人類の平和に不可欠であり,人びとの安全や福祉に決定的な役割を果たす.そしてまた,すべての誠実な人たちが,必要に応じて直ちに正しく自発的な協力関係を結べるほどに容易に学ぶことができ,一般的によく理解され,簡単に維持できるものである.そうした原理であるなら,次のような疑問が生じる.つまり,なぜそうした自然法は普遍的に,あるいは十分に普遍的に広がっていないのか? なぜずっと昔に,人びとが正しく従うべき唯一つの法として全世界で確立していないのか? なぜすべての人が,浅薄,誤り,愚か,凶悪であることがこれほど自明である立法のようなものが,人類に有用である,あるいは人間関係において意味があると考えたのか? 

2.
 その答えは,歴史を通じてどこにおいても,未開状態を超えて発展し,その日々の糧を土を耕すことによって増やせることを学んだ人びとは,多数者であれ少数者であれ,盗めるようなものを蓄えた他の人びとから略奪し,あるいはその労働が生産に役立つか快楽を与えるような人びとを奴隷化するために強盗団としての組織を結んだということである.

 こうした強盗団は,当初は少数であったが,互いに結託してその力を強め,戦争用の兵器を生み出し,軍事訓練をして軍隊としての組織を完成させた.(奴隷を含む)略奪品は,事前に決めた割合か,あるいは(常にその支持者を増やそうと欲する)リーダーが支持するように山分けした.

 こうした強盗団の成功は,略奪され,奴隷化される人びとが比較的に防御手段を持っていなかったため,容易なものであった.全国にわずかずつ散らばって住み,粗雑な農機具と重労働で土地から糧を得るために全力を尽くし,棒や石の他に武器も持たず,軍事訓練も組織もない.突然の攻撃に対して,力を合わせることも,協調的に防御することもできない.こうした状況では,命をとりとめるために彼らと家族に残された唯一の手段は,集めた収穫と開墾した土地を譲り渡すだけでなく,自分と家族を奴隷として差し出すことであった.

 それ以来,彼らは以前には自分のために耕していた土地を,奴隷として他人のために耕す運命となった.常日頃の彼らの労働によって,富は次第に増加したが,すべては暴君の手に渡った.

 こうした暴君たちは略奪品と奴隷による労働だけで生きており,その全精力をさらなる略奪と無防備な人びとを奴隷にすることに向けている.それにはまたこれまでに得てきたものを保持するために,仲間を増やし,組織を完成し,兵器を増やし,征服を拡大することが含まれる.そうした活動は,奴隷たちを保持するために,組織的に活動し,互いに協力しあうことが必要になるまで続く.

 しかしこれらのすべては,彼らが政府と呼ぶものを確立し,彼らが法と呼ぶものをつくることによってのみ可能になる.

 世界中のすべての偉大な政府は,現在するもの,あるいは過去に存在したものにかかわらず,こうした性格を持っている.彼らは単なる強盗団であり,略奪,征服,そして仲間を奴隷化する目的で協働してきた.彼らの言う法とは,組織を維持し,他人の略奪と奴隷化のために協働し,そこからの分配を得るために,互いに契約をする必要があるような合意のことでしかない.

 これらの法には,山賊や海賊,盗賊が互いに取り決める必要があった合意を超えた,真の義務など存在しない.なぜなら,彼らの犯罪行為がうまく行けば行くほど,彼らの分前の分配は軋轢なく実行されるからだ.

 こうして世界のほとんどすべての立法は,ある階層の人びとが他人に対して略奪と奴隷化をし,彼らを所有物として維持しようと欲したことに起因している.

3.
 時が経つに連れ,盗賊階級,あるいは奴隷を所有する階級は,土地を奪い,富を生み出す手段を保持するようになる.そして奴隷を管理して利益を得るための最も簡単な方法は,以前のように,たくさんの牛を保有するように各人が特定の奴隷を保有するのではなく,奴隷に自由を与えて,自分の面倒を見る責任を負わせることだと気づいた.そのうえで,以前は彼らの所有者であった地主階級に対して,地主の言い値で労働力を売らせることにしたのである.

 もちろん,こうした解放奴隷は,多くの人が誤ってそう呼ぶものの,土地や財産を持たず,独立して生計を立て手段を持っていない.彼らが飢えから逃れるためには,地主に対して生きるに必要限度の対価,時にはそれにも届かないような対価をもって,労働を売るしかない.

 こうしたいわゆる解放奴隷は,この状態でも奴隷であることは,以前とほとんど変わらない.彼らが最低限の糧を得るための手段は,一人ひとりに所有者がいた時よりも,さらに危うくなっている.所有者ならば,奴隷の命を維持しようとするからだ.彼らは地主の気まぐれや利益のために,家や仕事,そして労働によって生活の糧を得る権利さえも失うことさえもある.よって彼らの多くが,物乞いをしたり,盗みをはたらいたり,餓死せざるを得なくなる.そして当然ながら,かつての主人にとっては財産や平穏な生活への脅威となった.

 その結果,かつての主人たちは自分の生活や財産を守るために,より完全な政府を組織して,危険な人たちを意のままにするための法律をつくる.つまり,強制的な賃金の固定法をつくり,飢えをしのぐために犯さざる得なくなった盗みや侵入行為に対しては,恐怖を生み出す処罰や死刑までをも課す.

 これらの法は何百年も,また別の国では何千年も実行されてきた.現在でも,その厳格さに違いはあっても,地球上のほとんどすべての国で実施されている.

 これらの法の目的と効果は,盗賊階級,あるいは奴隷の所有者階級による,すべての土地と,できるだけ多様な生産手段の独占を維持することである.そして大多数の労働者たちを貧困と依存状態において,彼らが生きることのできる最低の価格で,労働を暴君たちに売るように仕向けることである.

 これらすべての結果,世界のわずかばかりの富のすべてが少数の者の手にある.法をつくり,奴隷を所有する階級であり,彼らはその精神において以前にも増して奴隷の所有者である.しかし,彼らは個人的に奴隷を所有する代わりに,労働者を依存させ,意のままにし続ける目的を達成するために,法をつくる.

 こうして,現在までに膨大な存在になってきた立法活動のすべては,少数者が多数者を操り,その労働を搾取して,その利益のすべてを得る目的をもった陰謀に起源を持っている.

 そして,すべての立法の基礎にある真の動機と精神は,隠そうとする偽装や見せかけにもかかわらず,現在でもこれまでと同じである.立法の目的は,すべて単に,ある階級の人間を別の階級の支配下・隷属状態におくことなのだ.

4.
 そうすると,立法とは何なのだろうか? それはある人,あるいは人びとが,その支配下にあるすべての人に対する,絶対的・無責任な支配という虚構である.それはある人,あるいは人びとが,すべての他人をその意志と支配の下におく権利を持つという虚構である.それはある人,あるいは人びとが,すべての他人の自然権と自然な自由権を即座に破棄し,奴隷化し,恣意的に何ができるかできないか,何を所有できるかできないか,何になれるかなれないかを決定する権利を持つという虚構である.つまりそれは人権原理,正義の原理を地上から廃止して,彼らの個人的な意志,快楽や利益に置き代えるという虚構である.これらの一切のことは,人の立法などというものによって,それを押し付けられたものたちに義務が生じるという考えに携わっているのである.