kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

断捨離 Extended phenotype

その昔、偉大なる経済学者(笑)、(どうして先端技術研究所教授??)の野口悠紀雄氏の「超整理法」を読んだ僕は、ひじょうに納得して、My Document 内のファイルを時系列で置くことにした。超整理法というのは、書類は自分にとってのみ意味があるため、自分の関心や活動の流れに沿って配置したほうが発見しやすいし、使いやすいというものだ。


それだけだと、ナーンダ、ということになるだろう。けれども、僕がこの本を読んで理解したのは、書類の話ではなくて、もっと深い所で、僕らのもっているもののすべてが「書類」と同じだということだ。


書類とほとんど同じものに「本」がある。僕は最近、人生について考えた後、これまでに買ってきた本を整理しているのだが、(自炊機も持ってはいるが)、二度と読まないだろう半分以上は捨てて、のこりは時系列に整理して、研究室に置き直している。


服もそうだ。去年の暮から、あれこれと探して、7割ぐらいを捨てて、残りを使った順にクローゼットやシェルフにしまっている。ちなみに、スーツというもののほとんどが過去3年以上も使われていなかったため、2着以外は、全部すてて、ネクタイもなんと2本になってしまった Alah! これまで何十着も買ってきたが、僕のような人間は、実はスーツなんか事実上要らなかったのだ!!


日本でもアップルのサービスが普及したら、僕の人生のほとんどを一緒に過ごした、今持っている(わずか数百枚の)CDもクラウドに置こうと思っている。


別に服に「トキメキ」を聞いたわけでもないし、ダンシャリをしているつもりでもない。しかし結局、本や衣服は僕の「延長された表現型」だ。僕の遺伝子が自分の増殖のために、僕の体をこえてつくりだした巣とでも呼ぶべきものである。それらは、僕がいなければ、だれにとっても何の意味もない。この意味で、すべての属人的な私有財産は書類と同じだ。


換金性が高いものは、それこそ金であったり、金融資産であったりするのだが、もちろん、ここでは、そういうことについて話しているのではない。


本というものは極めて属人的で、結局は僕がどこぞで話をするような、あるいは本や論文を書くようなときにだけ使えるものだ。昔は自分の蔵書を、大学などの図書館に寄贈することを考えていたが、それはすでにありえない。僕の大学を含めて、どこの図書館でもスペースは足りないし、データは電子化されつつある。


とはいえ、二度と読まないだろうとはわかっていても、本や服を捨てるというのは、なかなか勇気がいるものだ。願わくは、僕に十分な収入があって、自分の読んできた本に埋もれて死にたかったが、そうもできないのが、庶民の哀れと呼ぶべきものなのか Amen!