kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

Winner’s curse 勝者の呪い

経済学をやっている人に有名な定理に「Winners' curse 勝者の呪い」というのがある。


オークションで最高額を落札したものが、その入札額を支払って商品を手に入れるという場合、落札するには最高額を提示する必要がある。そうだとするなら、その額は他の入札者全員にとって、「不合理な」程度に高額なものであるだろう。だから、その額は、高すぎるだろう可能性が圧倒的に高く、つまりその金額での入札は入札者に損をさせる可能性が高い、というものだ。


これは実際、多くの正統派の経済学者も信じているため、まさに公認された反オーション論理だといっていい。


この例として、よく電波枠のオークションがあげられる。ヨーロッパやアメリカでは、電波枠がオークションにかかって、何兆円という額が政府に入ったが、そのために電話会社はかえって設備投資に回す金がなくなって、消費者が不利益を被っている、という「神話」が、日経を始め、多くのメディアに載っている。



しかしリバタリアン(あるいはオーストリアン)からみると、これはトンデモなくバカらしい話だと思う。そもそも、こういう理論は、客観的に一義に定まる商品(この場合電波帯域)の価値があるという仮定が置かれている。しかし、そんなものは存在しない!


例えば、ドコモに割り当てられている電波帯域について考えてみよう。電波の活用の仕方によって、現実の収入は変わってくるはずで、それをいまのように3Gのままで活用するか、あるいはもっと設備投資をしてLTEにするか、BeeTVやあるいは Hulu のようなサービスをもっと本格的にするか、音声とデータにどれだけの帯域を割り当てるか、あるいは日本通信にもっと棚貸しするか、といった判断は、それぞれに利益を変化させる。


つまり、ビジネスモデルによって、特定の帯域からの利益は変化する = 価値が変化するという、当たり前のことをいっているのだ。一番、うまく活用できるビジネスモデルを持っている業者はより大きな入札額を提示して、それがうまくいけば利益を得る。反対に、失敗すれば損失を出す、または破産する。また、いいビジネスモデルを持たない業者の入札額は低いだろう。


新古典派の思考の問題点は、完全競争状態における均衡価格の算出と同じように、まさに完全情報に基づく計算結果が、すべての業者の共有物だという神話にある。今後EVがどれほど急速に普及するのか、どれだけ自然エネルギーの安価な利用が可能になるのか、などなどに応じて油田の価値が今後どうなるのか? という入札額は変化するだろう。


それと同じで、未来のことは実は誰にもはっきりとわからない。だからこそリスクを取る意味があるのだ。それを、「リスクがあるから、誰も入札しないだろう。だから政府が音頭を取る必要がある。」などという人たちは、誰であれ、結局は完了による計画主義が、市場よりもすぐれていることを前提として議論している。


そんなんで、果たして飛行機ができたのか? 産業革命が起こったのか? ソフトウェア産業が興ったのか? 全部純粋に私人の活動の結果じゃないか。今、どうして中小型液晶の増産なんかを政府が保護推進する必要があるのか??


もっと円高を利用できるように、変な輸入規制を撤廃してほしい。