kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

原発をめぐる余談

たまたまクルマの中でNHKを見ていたら、「これから日本のエネルギーどうするか?」みたいな討論番組をやっていた。


もちろん、いつものように、このブログのオチは同じだ。「日本のカタチをみんなで決めよう!」という時、政治という強制力で決めようとするのではなくて、市場で決めることができるように、電力の発電、送電、すべての自由化だ。(、国営放送であるNHKだから、そういう話しにならないのは、仕方がないだろうが)


先日もメディアが勝ち誇ったように報道していたが、「地元自治体への原発交付金を勘定に入れると、原発は火力発電と同じくらいに金がかかっている」という。


これは間違いなく本当だが、そうだとするなら、本来の市場では、原発は実用化されなかったはず。原発を実現したのは、市場ではなくて、国家のエネルギー政策という強制力だったということになる。


さてここからは、本題余談です。


僕の主観的な理解では、僕が小さい頃は やれ「アトムは原子力、科学の子」だとか言われていて、原発への風向きはそんなに悪くなかったと思います。なんてったってアトムなんて名前が、原子力。しかし流れ流れて結局は、スリーマイル島チェルノブイリ、を経て原発も完全制御は不可能であったと理解されます。同時に、経済状態が上昇したために、安全・安心が安価な電力よりも優先されるようになってきたということなのでしょう。(念のために、経済学を知っている人向けに書くと、放射能汚染がないということがsuperior goodsであって、所得が上がるほどに相対的な価値が高まるということ。)


とするなら、この場合には原発は自発的に市場原理によって開始されたが、しかしどこかの時点で反対運動が高まってきたために、ドイツのように廃止されているはずだったということになるでしょう。


さらなるdigressionです。僕個人としては、別に放射能はそんなに怖くはないが、怖い人が多いのなら、オバケと同じでやめとけばいいのではないか?という程度に感じます。

(まったく正直なところ、原発付近の地価が大幅に下がっているというのなら、僕は老後は原発の近く、御前崎あたりの海辺に引越しして、ゆっくりと生活したいと思います。おそらく大学で職業的に語っている学者としては、これこそが効用関数の違いに基づく交換・分業の利益、というものでしょう。あるいは、サヨク的、客観主義的な色の強い学者たちは、「情報の非対称性、or informational bias 」などとして認識したがるのでしょうが、、、)


さてしかし、この考えの問題点は、議論を突き詰めていくと、「人が怖がる → やめておけばいい」というオチになってしまい、同じ議論で、「人が政府の巨大化を望んでいる → 巨大になればいい」ということになってしまうこと。つまり、説得 という概念や、あるいは 合理的な情報の提供、という概念が消失してしまうのですな、これが。 


デカい政府をみんなが欲しがっているんだから、それでいいのだ → ダマッてろ リバタリアン!自虐ギャグは簡単ですが、現実は複雑ですな、どうしましょう、いったい?