kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

人生というシグナリング・ゲーム

前のブログにanacapさんが反応して、「人生の出費のほとんどがムダだ」という鋭いtweetをしてくれた。小生は、それで、さらに考えれば考えるほどその通りだと思ったという追記をしよう。

ローレックスやエルメスの内在的な(それらが存在するとして)価値はおそらく、どのような計測によっても、その価格ほどではないように思われる。明らかに、我々はそういったブランドの持つイメージに対価を支払い、それはおそらく自分の稼得能力や美的なセンスのシグナリングなのだろう。

多くの消費活動は確かに純粋に考えれば、ムダ極まりない。ほとんどの商品が100円ショップで買えるだろうが、そういった商品のみを愛用する人は、明らかにあまり異性からはモテなさそうだ。

いつも思うのだが、服やサイフ、時計というものほど、実態のないものはない。おそらく人生をダイソーのサイフを使っていきることは間違いなく可能だが、スーパーの1000円クラス、ハンズなどの5000円クラス、デパートの1万円クラス、ブランドの3万円クラスと、多様なサイフが存在している。まさしくアクセサリーそのものだ。時計は宝石に近くて、もっと分化が激しい。

ゲオでDVDが100円で見れるのに、半年の時間差のために映画館で数千円も出す人もいる。なるほど、多くがカップルである。

そういった購買活動や消費行動はすべて社会的に「自分がいかにマトモな人間であるか」についてシグナルを発しており、そういったことを諦めれば、人生はそうとう安く生きれるように思われる。しかし、そういった人生が満足のいくものとなるかは、当人が他人の視線をどの程度気にするかにも依存しているだろう。

しかし、そういったstatus goodsを求める人は、無限の努力を必要としても満足できないことになる。おそらく実際に人間とはそういう存在なのだろう、だからこそ、どこまで金があっても満足できないものなのだ。先進国市民の幸福度が、途上国市民の幸福度よりも決して高くない理由はこういった人間活動の周囲との競争性にあるのだろう。よくよく考えれば、繁殖に不可欠な異性の数が有限なのだから、人間に置いてもそういったステイタス活動は、クジャクのはねと同じ程に無意味でグロテスクなものになっていても不思議はない。

配偶活動だけではなく、もっと広義の社会性まで入れると、件の葬式の長さやアルマーニのスーツから、政治家の主張する、貧困者の食料を高騰させても、バイオフュエルを使うべしという、公共性・道徳性の高さのシグナリングまで、あらゆる人間行為が、本来の目標自体から見ると、不合理なレベルで遂行されているという観察に行き着く。もっとも、「本来の目標」などを個人が意識する必要はない。それは我々の生物学的な過去から、きっちりと脳内に配線されて行動が発現しているだけだからだ。

小生はミシュランの店のデザートと比べても、森永のピノやグリコのカプリコで充分満足できるし、それは価格差ほどには満足度は違わないと思う。あえて言うなら、小生は車好きではあるので金が必要だが、別に高級車に乗りたいというよりも、のって運転するのが楽しいので、そこそこのクルマでも十分に満足できる。

と、考えれば考えるほど、むなしい気持ちにもなるが、結局の人生訓としては、無限に配偶者を求めないのなら、比較的趣味の似た相手と家庭を築ければ、たいへんに結構なことだという程度にでもなるだろうか?