kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

葬式に出てみて

一昨日、故郷の富山での親戚の葬儀に参列した。それで、「立山」という割と富山では有名な酒を香典返しにもらい、今だらだらと飲んでいる。小生のようなグルメからもっとも縁遠い人間には、とくに味もわからないのだが、、、

葬式というやつは、つまりワケの分からない念仏を聞いて過ごすのだが、昔は、まったく意味が分からないと素直に思っていたが、今はよくわかるようになった。

Jeffrey Miller の近著に「Spent」というのがあって、これはつまり「人間が消費活動をするのは、異性に対して、自分のクオリティーの高さを宣伝するためだ」という主張をしている。Millerは昔から、「動物行動のシグナリングゲームは、常にコストを必要とする、でないとコストレスに模倣されてしまい、行為自体の意味がなくなるからだ」というテーマを人間の求愛行動に当てはめている進化心理学者だ。


さて、葬儀は求愛ではないが、結局、自分がいかに故人の死を悼んでいるのか、というシグナリングそのものだ。だから、無意味で長く、辛い念仏を聞くのに耐えることが、その社会性のシグナリングコストになっていると考えれば、ひじょうに分かりやすい。


もちろん、小生自身の葬儀は原理主義者だからしたくないが、一般論としては葬儀がムダだとかいう気はしない。特に超自然的な存在を信じていなくとも、自分が死んだら、懇意にしていた人が集まって弔意を示してもらいたい、というのは極めて人間的なのぞみであり、非合理だとかいうものでもないだろう。


今回、故人はすでに扶養家族がいなかったから、誰かを金銭的に助ける必要性と、葬儀に出席するための交通費などとのコンフリクトはなかったのがありがたい。もし、故人の死によって金銭的に困った人がいるのなら、小生は葬儀に出席する交通費用などを彼らに渡すことを選択しなければならないと思っているからだ。


で、そこで初めて出会い、ちょっと一緒に遊んだ故人の7歳の孫(小生のイトコの息子)がいたので、小さな友情の証として今日は彼にDSソフトとLaQというブロックを送った。そういう形でfamily reunion の機会になるのは葬儀の有益な機能なのだろう。


それにしても、土気色をした亡骸が焼かれ、モロい骨だけになり、それをつぶして箱に入れるというのは、人生の有限性そのものを感じさせてくれる。

「出会い、別れ、土に埋もれ、日が沈むように死んでゆく」というB'zの曲があったが、そういった程度のことなのだろう。