kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

民営の刑務所はどうよ?

punishment for sale (刑罰売り出し中)」という本を読んでいる。アメリカでは80年代のレーガン政権を経て、90年代から刑務所の民間委託が本格化してきた。民営化も20年を経て、多くの問題が発生した(ように見える)ため、それに対する反論が本になったものだ。


この本も古典的左翼そのものという感じの犯罪学者が書いたものだが、論点はいくつかある。特に重要な論点としては、


1、民営化は犯罪の発生原因を放置して、アフリカ系アメリカ人への差別を永続させている、

2、民営刑務所では経営陣に多額の給与が支払われており、効率がむしろ悪い、


というような点がとり上げられている。おそらくもっと潜在的な要因としては、監獄を「営利目的」で運営するというのが気に入らないようだ。つまり行為の「結果」がこれまでの公営のものよりも効率的かどうかではなくて、そういった行為の「動機」の不純さが問題なのだというわけだ。


これは経済学の議論が、殆どの場合、純粋に結果のみに注目している点とは明らかに好対照である。経済学者は各種の手段の「効率」を論じるが、その場合は手段それ自体の「倫理性」や「望ましさ」は判断しないのが普通だ。だからこそ数字で議論ができるのだが、反面、多くの人の政治感覚からすると、不十分だとか、あるいはまったく納得できないということになるのだろう。しかしこれを突き詰めると、すべての非常に有用であるが商業目的の活動を否定することになるが、僕はそういった単純主義は中学生までの道徳の教科書で卒業するべきだと感じてしまう。


さて、そもそも1の問題意識そのものに対してさえも僕は納得しないが、ここではこの議論はやめて、2についてだけ、少し続けてみよう。著者たちは、「民営刑務所の経営者は、同等の公務員に比べて、数十倍以上の報酬を得ているため、産業としての効率が悪い」とまで主張している。これはよく、「銀行の経営陣は金をもらいすぎだ。リーマンショックなどを引き起こしておきながら、なぜ彼らは厚顔無恥にも何十億円という報酬をもらうのか?」というものとまったく同じだ。


さて、銀行に限らず、そもそも企業経営者は金をもらいすぎているのだろうか?この質問に対して、答えるのは、直感に訴えるよりも難しいように思う。なるほど我々の常識的な感覚は人間の能力の差が小さいことを教えるが、しかし小さな差であっても、大きな組織を動かせば、その小さな差は大きな差に拡大されることになる。


例えばある(10万人の従業員の)会社の利益を1兆円増大させた経営者は、いくらもらうべきなのか。1兆円か、あるいは1千万円か。おそらくその間のどこであるのかについては、ゲーム理論的にいくつもの解のアイデアがあるだろうが、少なくとも数十億あっても良さそうだ、と僕は感じる。


公務員と経営者を比べるのがなぜ悪いのかという理由は、公務員は大きな意思決定を行わないし、その責任を負わないという点にある。だから、一見して同じような活動をしているように見えても、報酬が異なっている理由は十分に存在する。社会学者などはこういった違いを無視して、あたかも経営者と公務員のスキルが同じであるかのように論じるが、そういった考えは企業活動のダイナミズムを過小評価しがちな学者の発想だろう。ユニクロのような単純な服の生産や流通でさえもこれだけの効率性の差があるのに、刑務所の運営のような複雑な業務に専門のノウハウが無いはずがないだろう。


もっと根本的なところで言うと、こういったアメリカなどの先進国に住む社会主義的な学者たちの視点には、なぜかつての社会主義国の生産活動全体が沈滞してしまっていたのかという視点がまったく存在しない。なぜソヴィエトは崩壊したのか?なぜ中国やインドは社会主義によって貧困のそこに停滞し、その後の資本主義化によって現在の発展を経験しているのか?という歴史的な視点がないのだ。


GMなどの企業の経営者でさえも数億円という報酬をもらっている。それが効率的でないというのは、直感的にはそう思うかもしれない。僕でさえもそういう感覚はもたないわけではないが、そうであるならもっと低い給与で満足するような、しかし同じ能力を持つ人物に経営者になってもらえばいいのではないだろうか。そういった人がいないのなら、それはやはり特殊な能力を持つ人間がいないために、価格(報酬)が上がっていると考えざるを得ないように思う。もちろん価格が市場で決定されているからと行って、それが「正しい」価格であるとは言えないが、少なくとも必然的であることは結論できるし、さらにそれは刑務所運営という目的に対して効率的であることも証明しているのである。