kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

続 vegetarianism & libertarianism

今日は久しぶりに時間があるので、昨日に引き続き、3、4の命題について考えてみましょう。


まず3について、さらにもう少し書き足したいと思います。現代の工場農業では、ウシやブタ、チキンはコーンやダイズで育てられるのが普通なので、同じ量のタンパク質をつくるためには、ウシは12倍、ブタは6倍、チキンは3倍ほどの飼料穀物が必要になります。ということは、飼料穀物を人間が直接に食べれば、少なくとも、現在の世界の飢餓はなくなるはずだと多くのヴェジタリアンは主張するのです。


しかし、ここで、なぜ現存の植物食品のみが食べられ続けるという前提をおくのかが問題なのです。おそらく人間とは味を楽しむもののようなので、肉が食べられなく、あるいは食べなくなれば、それを補うために、はるかに育てにくいが美味であるような植物が大量に育てられると予想されます。そうであれば、世界の飢餓はまったく解決しません。


おそらく僕は生まれつき、味覚音痴であり、食べ物にはこだわりがなかったので、肉がなくても平気なのでしょう。しかし、テレビのグルメ紀行番組がこれだけ週末に放送されているを見ると、人々は今ある植物食品だけで満足するようには、まったく思われません。読者のみなさんのほとんども、おそらく現存の植物食品だけでは満足できないのではないでしょうか?


これと似た話に、僕が中学、高校時代から感じていた「なぜ世界中の人が人民服を着ないのか?」という疑問があります。世界中の人がカーキの人民服を来てマオカラーを楽しめば(笑)、おそらく世界の資源消費量は激減し、環境負荷も激減すると思いますが、それをやろうという環境団体は存在しないようです。つまり、服装はそれだけ個人の自己表現そのものなのであり、誰もそれが「ムダ」だとは主張していないということでしょう。正直なところ、僕も服装の画一化というのはあまり面白い話ではないと感じてしまいます。おそらく食事もその程度の多様性が必要なのではないかと、(あまり食事に興味のなく、同じメニューに耐えることが苦痛でもないタイプの)僕は考えるわけです。


例えば、「肉を喰う男こそが男の中の男であって、草しか食わないような草食男子はナヨっちくてダメだ」という男や、あるいは女にとっては、食事は自己表現の一つであることは間違いなさそうです。まあ、そう考えると、動物への共感についても、むしろ「共感しない」のが男らしいという価値観もありなはずです。これは僕のいろいろな知人にも割と数多くいるタイプであるため、人間付き合いとは難しいものです。またみなさんも考えてみてください。


さて4に話題を移して、もう少し4を詳しく分類してみましょう。


4,1 有機農業は化学肥料を大量に使用する農業よりも望ましい、
4、2 遺伝子組み替え作物は危険であり、禁止されるべきだ、
4,3 肉の生産には多くのエネルギーが消費されており、地球温暖化を促進している


という順に検討します。


4,1については、有機農業がどのように定義されるにしても、それを試みてみればいいことであって、情報を正しく伝えれば、消費者がそれについてプレミアムをどれだけ支払うかを決めるでしょう。その結果、有機農業を好む人が多くて栽培がペイするのであれば、それは増えていくだろうし、それよりも安いものを好むような消費者が多いのであれば、有機農法は増加しないでしょう。これを国家的な基準によって増進したり、抑制したりしようとすること自体がリバタリアニズムとは相容れないことになります。


4,2においても同じことが言えますが、ラベリングをめぐって、法律をつくるべきかどうか、ということも論点となっています。しかしリバタリアンは偽のラベルは詐欺を構成するなら処罰するべきだし、そうでないのなら、ラベルするかしないかは、個別の生産者、あるいは流通業者が決めればいいというでしょう。それでは消費者が混乱してしまうというのであれば、有機農法専門の流通業者が生まれるべきで、そういった情報の集約化を売り物にするプレミアムマーケットが生じるべきだということになります。


4,2の遺伝子組み換え農産物については、難しいところです。多くの左翼ヴェジタリアンは、カナダの遺伝学者David Suzukiなどの著作を引用してその危険性を主張します。しかし、遺伝子組み換え作物はすでに10年以上も市場に流通しているが、別段の問題は生じていません。多くの植物学者は、当然ながら遺伝子組み換え作物の危険性は個別品種について判断されるべきであると考えていて、全面的な禁止というのは意味が無いと主張しています。


生物多様性への危険など論点は多岐にわたりますが、組み換え作物が広がることは、伝染病のように公共財的な性質を持つために問題視するひとが多いのでしょう。あと、左翼の「共感」という発想が、「動物への共感」となってヴェジーを支えているところがあります。それはそれでいいと思うのですが、それが生物を超えて、「地球への共感」にまでなっているのが、僕のような合理主義者には理解出来ないところです。僕にはこれは温暖化への過激な取り組みと同じように、「左翼地球教」ではないかと思われるのです。


「地球への共感」は必然的に、どういう形であれ地球を汚すものへの強制的な処罰を含むため、個人主義的な活動を認めようとするリバタリアニズムとは直接的に対立します。また多くの個人的・享楽的な活動も、地球への負荷をかけながら、自分の悦楽にふけるといういう原罪を犯しているように感じられるわけです。この意味で左翼地球教はリバタリアニズムとは相いれず、おそらくリバタリアンが温暖化の防止に懐疑的であることとと軌を一にして、永遠に激しく対立しそうです。


たしか15年ほどだったか前に、エヴァンゲリオンを見たとき、科学万能主義の僕は残念なことに「シ、シンクロしねーー!」と思いました(爆)。もちろん僕は地球が汚れるのがいいと思っているわけでなくて、地球を生命体と感じるような感覚そのものとシンクロしないのだということは、一応付言しておきたいです。おそらく地球環境をまもるというのは、現代共通の世界宗教なのでしょう。


ちなみにインドや中国、ブラジルなどの発展途上国でも遺伝子組換え作物は農民に大きな利益をもたらしており、グリーンピースなどの活動にもかかわらず、普及してきたということについては「Let them eat precaution」などの書籍に詳しく載っています。21世に入って、多くの遺伝子組み換え作物オープンソース方式で開発されており、多くのヴァリエーションが灌漑設備のない、あるいは地味の痩せた土地での収穫に役立っています。そういった作物はモンサントなどから独立して、特許もとられていないし、開発も第三者的な研究機関が行っています。


先進国、特にEUの住民はprecautionalismみたいなのが好きなようですが、それは飽食の市民の視点で、アフリカやインドなどで飢餓に苦しむ農民にとっては、そういった抽象的な未来の危険の回避よりも、今の食料や収入の方が大事だということなのです。しかし、パターナリズムを肯定する人は、そういった農民は「間違っている」みたいな態度をとるのが、現代の環境主義が昔の社会主義とまったく共通している点だといえます。


またヴェジタリアンがなぜマクドナルド、モンサント、その他の企業を毛嫌いするのかも不思議だし、まさに左翼的です。彼らの言い分を聞いていると、人々が情報操作によって大企業に騙されているというような記述が多いのですが、僕は到底そうは思えません。人々は自分の味覚や感情に都合の悪い事実については知りたくないだけなのでしょう。つまるところ、大企業などは政府と違って、人々が購買活動をやめれば、その場で倒産せざるを得ないからです。政治活動の戦略には、どこかに悪玉を作って、それが人々と対立しているというスケープゴート的なシナリオが多いのですが、僕はそういった単純な発想はどこか陰謀論に似て、御気楽に過ぎると感じるのです。


さて仮にEUや日本、韓国などがこのまま遺伝子組換え作物を禁止し続ければ、どうなるのでしょうか。しばらくの間は、アメリカやアルゼンチンでのコーンやダイズは組み換え作物なのでそれらの値段は安くなり、EUなどでは伝統的な品種を栽培し続けるために高くなるというだけとなるでしょう。しかし、数十年のうちに、それが例えば10倍、100倍の価格差になり、あるいは除草剤、殺虫剤の使用料が10分の1、100分の1になれば、おそらくは遺伝子組み換えとは、従来の育種改良と同じことだったということが、もっと人々に理解されるようになると思います。なにせ、現代のコーンやポテトなどは原種の100倍以上の収穫が上がっているのに、そういった突然変異の集積は「有機的で自然」だということらしく、誰も気にしていないようですから。


4,3についてはどうでしょうか。肉を育てるために、全体の20%を超える大量の化石エネルギーが投入されているのは事実です。だから、肉食をやめれば、それだけで人々が車に乗るのをやめる以上のCO2削減が可能です。これ自体は素晴らしい事実ですが、そういう風に宣伝しているのをヴェジーサイト以外では見たことがないのは不思議です。それだけ肉食は重要な文化の一部だということなのでしょう。しかし、肉食をやめたとしても、今よりも手のこんだCO2排出量の多い作物が作られる可能性はあるので、肉を食べなくなってもそのまま排出量が減るわけではない可能性は残ります。


ちなみに僕個人としては、肉を食べるよりも、ドライブがしたいです。つまり人はそれぞれに楽しみにおいて違っているわけです。温暖化を防止しすることに納得しているリバタリアンは、CO2排出についても市場を作って価格をつければいいのだと考えるはずです。そして市場による解決は、いつものように最も効率的です。


よく言われることですが、ウシは大量のメタンガスをゲップにしてつくりだすので、それを市場に組み込むなら牛肉は現在の価格よりも相当程度は高くなるはずです。このことは弱い程度では食肉全体についても当てはまっていて、将来的に炭素排出税が課されれば、肉の値段は上がるはずなので、相対的に植物食物は安くなるでしょう。



しかし果たして地球の温暖化がそれほど悪いものなのかどうかは僕にはまったくはっきりしません。リバタリアンの多くは温暖化に懐疑的だし、さらに温暖化が悪いものなのかどうかについても懐疑的です。というわけで、この点はヴェジーリバタリアンはまったく対立しているというわけです。


まとめ


最後に全体をまとめると、現状肯定的な色彩の強いリバタリアニズムと、(1の個人の健康への悪影響を除いて)、3、4について社会主義的な色彩の強いヴェジタリアニズムは、あまり相性が良さそうではありません。そうだとすると、僕がこのリバタリアンサイトでヴェジーを宣伝することは、ほとんどの人にとっては主張の錯綜によって混乱してしまうだけで、望ましいことではないということになります。とすると、大変もうしわけありません。


またしても結論が自爆になってしまったのですが(笑)、これも僕の矛盾した実存そのものなのでやむを得ません。
ではまた Adios Hasta Luego!