kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

Veganism は Libertarianism から肯定出来るのか?

さて最近はリバタリアンというよりもヴェジタリアンについてばかり書いていますが、実際、僕の思考が(経済実験のほかは)それに関心が行っているので、まあ適当に読み流してください。


今日たまたま知り合いと近くのoutbackというステーキ屋に行って、久しぶりに肉を少し食べてみました。ご存知の人もいるかと思うのですが、このチェーン店はオーストラリアの名前がついているのに、なぜかアメリカに大量に存在する上に、今年のザガットサーベイでもナンバーワンにランクされたという奇妙なステーキチェーンです。


不思議なもので、おそらくあまりに多くの反肉食情報を得たために、すでに肉が美味しいと感じなくなったのが自分でも変な感じがあります。先日報告した「チャイナ・スタディ」は読むのに10時間以上かかってしまいましたが、youtubeにCampbell教授の45分間の要約的で的確なプレゼンテーションがあるのをヴェジタリアンの最大サイトであるvegesource内に発見しました。ので、英語が聞ける人はぜひとも聞いてみてください。

http://www.vegsource.com/news/2009/12/meat-dairy-cause-cancer-video.html

です。あるいは聞くのが面倒だという人は、22分30秒時点のスライド見てみてください。他にもいいスライドはたくさんあるのですが、これが一番すばらしく説得的な情報を提供しています。肉食と乳ガンの発症率が世界的に驚くほどに比例していることが示されています。あまりに関係がぴったりと当てはまっているので、僕はこのスライドを見て「科学的なデータはかくあるべし」と感心したほどです。


キャンベルは肉を「発ガン物質」であるとまで読んでいます。おそらく科学的にはそう呼ぶべきなのでしょうが、肉食は人間の文化にあまりにも深く入り込んでいて肯定されているため、本当にそう呼ばれるということがあるとしても、それは遥かに遠い未来であると思います。ちょうど現在タバコがそう扱われているように。


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ところで、僕はリバタリアンなのですが、そういうリバタリアンな人間は果たしてヴェジタリアニズムとどう思想的に整合するのか?あるいは整合することはないのか?というのは知的に興味深い論点です。なので、以下に僕が感じるところを、だいぶ詳細に論じてみましょう。


例えばジョン・ロビンズの「フード・レボリューション」には、左翼的な部分を含めてヴェジタリアンの常識が大別して4章になって記載されています。


1、肉食は動脈を硬化させ、ガンを発生させるなど長寿に悪い、
2、肉食を支える動物の飼育環境、屠殺環境は劣悪で非人道的であり、それはミルクや卵の生産においても同じである、
3、世界には10億人にものぼる飢餓状況が存在する。肉食を支える資料を人間が直接に食べれば、食料は世界に余っており、飢えに困る人はいなくなるはずである、
4、有機農業を推進するべきであり、遺伝子組換え作物は危険である上、モンサントなどの世界の大企業の営利のためにのみ存在しており、利用されるべきではない、


という風に要約できるでしょう。奇しくも1から4に向かうにつれてリバタリアニズムとは相性が悪くなっていくようです。これは偶然なのか、なんなのか?僕自身にもよく分からないのは不思議です。


1は、とりたててリバタリアニズムとは関係がなさそうなので、省略です。


2は、つまり人道主義とは関係していますが、直接的にはリバタリアニズムと関係がないようにも思われます。おそらく「自由」を享受するためには、権利主体である必要があって、それは人間でなくてはならない、という常識に従うなら、問題ないでしょう。しかし
よくよく考えてみると、「なぜすべての人間には権利があることを当然とする了解があるのに、動物にはないのか?」という問題は残ります。これは例えば、アメリカでの黒人解放以前の黒人にはなぜ人権が与えられていなかったのか?という疑問を考えれば、将来的にはあるいはある種の動物、おそらくは類人猿などには限定的な人権が認められるかもしれないと思われます。


おそらく自由の享受主体であるためには、人間である必要はないのであって、物理的に力を持っている人間のマジョリティが納得すれば、それは権利主体として認められるのでしょう。例えば、イヌやネコはすでに動物愛護法などによって、限定的な保護を受けています。イルカやクジラは近いうちに(テロリズムのおかげもあって)ある程度の(事実的な)権利が認められると思われます。イヌと同じほどに知的で、かつ魅力的な動物であるウシやブタなどが現時点で完全に愛護運動から無視されているのは、主流文化に内在する因習によるという以外には理由はないので、あるいは将来は違ってくるかもしれません。


とはいえ、僕は動物の権利主義者というほど急進的ではないので、「とりあえず動物を殺して食べるのはやめようよ、身動きもできないような飼育環境で無理やりミルクを絞ったり、卵をうませるのもやめようよ」と訴えたいという程度です。


3は、前にも書きましたが、経済学的にはほとんど完全に誤りです。食料が不足する国では、農業生産物を交易によって入手する財を作り出していません。肉の生産にコーンやソイビーンが利用されなくなれば、単純にそれらの土地は休耕地になって、自然に戻るだけだけです。先進国の農民は、食糧不足の国へタダで送るために農産物を作ることはないはずです。あるいは土地が休耕地にならずに、もっと別の希少な植物の栽培地となることになることも十分に考えられます。


この点は、ヴェジタリアンが総じて左翼主義的であることと関係があります。彼らはヴェジタリアニズムは肉食よりも「平等」を実現するはずだと信じたがるし、信じてもいるのです。しかし、現実は違っていて、仮に肉食が否定されれば、別の新しい希少な植物製品が生まれることになって、現在の肉とダイズや穀類との差のように、あいかわらず貧富の差は食べるものの差になって現れ続けるはずです。左翼ヴェジタリアンがそうなるだろうと思わないのは、半分は希望的な心性によるものであり、残りは単なる経済の仕組みに対する無知から生じているのでしょう。


僕はこの3の点については、基本的に多くのヴェジーに共感を持ちます。しかし事実の間違いは共感によっては正しいものにはなるわけではありません。ある種、残念なことではあります。


さて、4、については、3以上にリバタリアニズムとはソリが合わないように感じますが、これは長くなりそうなので日を改めて、また書いてみることにします。