高校のとき、世界史の先生が、
「右翼も左翼も極端な人たちは、おんなじ様なことをしてますね」
といっていた。
つまるところ、過激派のことと暴力団のことをさしていたのだと思う。
言葉ではなく、暴力で相手を黙らせようとするところが似ているということなのだろう。
さて、僕は右翼の思想にありがちな、
「結果の不平等や差別は肯定される」といような考えは
リバタリアンの支持することの多い
That's none of your buisinessという言葉に表れていると思う。
これは個人の自由を重視すると同時に、
相手の共感(良い意味)やおせっかい(悪い意味)を拒否する態度だろう。
左翼的な思想というのはおそらく「共感」が重要で、
それはいい部分もあると思うが、余計なお世話の強制につながりがちでもある。
例えば僕はpeter singerとかの、他人や動物への共感の哲学に対して好意的だが、
同時に彼やその支持者の「法による強制」が望ましいという態度には賛成しない。
さて、当然ながらリバタリアニズムには多くの要素が入っているが、
多くのリバタリアンが、例えばHoppeを支持している。
彼の本を読むとある意味での毒があって、悪い意味で言うと、
「他人への差別を肯定する精神的な自由を認めろ!」みたいな響きがある。
僕はこういった感覚を強く否定する気はないが、非常に強く共感するわけでもない。
しかし誰にでも、「そんなのからすの勝手だろ!」と言いたいときはあるだろうし、
「人間は、平等な社会の建設に生きがいを見出すはずだ」
みたいな発言には偽善性を感じるのではないかと思う。
この立場は、あえていうなら右翼的な色合いの強いリバタリアンだといえると思う。
この反対に、左翼的な共感を推し進めて、
「人にはそれぞれに別の目的があって、それを調和させようじゃないか」
みたいなテーマを持ってリバタリアンになる人たちもいる。
例えば、Narveson http://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Narveson とかに代表されると思う。
彼のRespecting persons in theory and reality
http://www.arts.uwaterloo.ca/~jnarveso/books.html
なんかは特にそういった色彩が強く、非常に僕的に気分がいい。
どんな活動にも、おそらくはその実行者なりの価値観があるのであり、
そういった感覚は、(残虐行為を含めて)人間性からかけ離れたものではないように感じるのだ。
おそらくは多くの左翼がかった学者(含くずれ)は
こっちのほうからリバタリアンになった人が多いことに間違いない。
おそらくこのような右翼左翼の違いは人間観とも関連しているのだろうが、
リバタリアニズムというのが理解されにくい理由の一因にはなっているように思われ残念だ。