kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

独禁法はわけわからん

セブン・イレブンが公正取引委員会から加盟店への拘束を緩めるように指導されたようで、
そのことをめぐって、何人かのリバタリアンがそれに反対している。


例えば、kyuuriさんanacapさんTyapeAさんなんかの意見をご覧ください。


日経を含めてメディアは国家機関の意見はそのまま常に正義だと思っているようなので、
当然に、セブンが弱者たる加盟店をイジメル悪者になってしまっている。
で、もちろん、僕もこれには反対なのだけれど、さらにちょっと思うところを2点ほど書いてみたい。



Point 1.「 優位な地位の濫用」という概念はわけがわからない


昔、僕が高校時代だったかにガンダムのプラモが、大学時代にはファミコンドラクエソフトが大人気になり、
多くの販売店で、他のクソゲーなんかと抱き合わせて販売される状態が生じた。
(僕はこのどちらにも直接の体験もないし、思い入れもない。)
で、当然、公正取引委員会独禁法違反を指摘したのだが、
これも考えてみると、変な話だ。
今ならヤフーオークションで問題なく高値をつけることができたはずだ。


もともと、多くのファンはクソゲーは必要ないので、
事実上は定価を上回る価格で販売していたことに納得していたのだろう。
店の側からの実感に対しての見方としては、
1、定価を超えて販売するというのではなんか申し訳ないと感じた小売店側が、(ほとんど価値のない)おまけをつけてくれた、
というのと、
2、オマケと抱き合わせることによって、堂々と儲けを増やすことができた、
の両方があるだろう。
1、は小売店を好意的にみる見方だが、2、は悪意にとる見方だ。
2の見方を強調して、介入するのがアメリ独禁法以来の伝統なのだろうが、
これがニューヨークの家賃統制や、日本の借地借家法と同じ結果を生むのはいうまでもない。


独禁法が禁止しがちである、拘束的な小売価格の維持と言うのも、経済学からみると合理的だ。
みなさんが指摘しているブランドの価値については、例えば、ルイ・ヴィトンはたいへんに値引きに渋いことは
僕の妻を始め(笑)皆が知っており、それはどうやらブランド価値を高めているようだ。
少なくとも、そういう商業戦略があってもいいだろう。


もう少し、まともな指摘をするなら、D・フリードマンのLaw's Orderにも納得の記述がある。
リアルな店舗を持ってAV機器を視聴させる小売店は、客が製品購入をするのを手伝っているが、
価格拘束がないなら、客は視聴した後、ネットで最安値の店から買うだろう。
価格を拘束することは、リアルな店舗で客が実物を見たり、触ったり、試したりすることを可能にするため、
メーカーにとって大きな意味があるのだ。
これは僕もたいへんに納得している事例なのだが、独禁法では「地位の濫用」などという
いかにも法律家の使いそうな 皮相的な判断を詐術する用語によって正当化されている。
わけがわからん!




Point 2. 「市場の独占」という概念はわけがわからない


もっと、翻って考えてみると、
独占禁止法はスタンダードなミクロ経済学では伝統的に正当化されていることそのものが問題になる。
独占は消費者余剰を減らし、社会余剰(=消費者余剰+生産者余剰)も減らすために政府介入の必要があるというのだ。
どのスタンダードな教科書にもロビンソン女史の独占分析が載っている。


しかし、これはおかしな話だ。
スタンダードなミクロ分析では、技術革新やイノベーションが外生的に発生することになっており、
技術革新やアントレプレナーシップなどがあっても、それへの対価は長期の均衡状態では存在しないことになっている。
長期の均衡分析にこだわる余り、誰が最初に技術革新をもたらし、
長期の均衡にいたるまでにその報酬をどの程度受けているのかの分析が存在しないわけだ。
これは、Karznerなんかが繰り返し批判し続けてきている。
どのみち、アメリカの独禁法を彩ってきた、鉄鋼、石油、鉄道、アルミ、OS、などのすべてについて、
長期には有力な競争相手となる技術や起業があわられている。
利得は短期から長期にいたるまでの過程にしか、存在していない。


そしてまた、ウィンドウズのような独占の利益がどの程度望ましいのかを計算するには、
起業家の努力量の計測や、さらにはそういった努力による利益の期待値、分散などの数値分析が必要なのだろうが、
こういったことがミクロ経済学で研究されていると言う話はほとんど聞かない。
せいぜいが製薬会社のR&D投資と収益率ぐらいではないだろうか?
(今はどうなのでしょうか?詳しい誰かsuggestionを下さい。)


というわけで、スタンダードなミクロ経済学は、技術革新や起業の価値を理論的に取り込んでいないし、
同時に過小評価しているというのが、多くの市場重視、オーストリア系のリバタリアンの批判だというわけだ。
そもそもコンビニのような業態に大きな意義があると見出したことのリターンがどの程度であるのが正当なのかが
実証的な基準もなければ、規範的な基準もないという有様なのである。


とはいえ明らかに総論としては、バスティアに習うなら、
見えるもの=現在の(一見しての弱者の)保護、
見えないもの=(一見したところの強者の作ってきた)経済的な価値の消失と
=未来で得られるはずであった、より多くの弱者にも分配されるはずの経済的な損失、であり、
見えるもの < 見えないもの である。


政治活動が見えるものの保護をする余り、
常に見えない未来を殺してしまっていることは、200年前から変わっていない。