kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

TypeAさん どうもです

そういえば、TypeAさんが
リバタリアンの教育観を補足してくれている(TypeAさん ありがとうございます)ので、
それに関していつも感じている、建前を越えた本音のところを、雑然と書いてみよう。


普通、読み書きソロバンということで、verbal, math が世界共通の教育なのは事実なのだが、
はたしてこれらにしてもどの程度不可欠なのかは、よくわからない。


とはいっても、まずおそらく現代社会である程度常識的なラインの事務的な仕事をする際には読み書きは必要じゃないかと思う。
とはいっても、フェデラーウィンブルドンおめでとう)のようなアスリートや
あるいはマイケル・ジャクソンなどのセレブにとって、ほんの初歩を超えたような読み書きなど必要なのだろうか?


数学にいたっては、ますますその意義がはっきりしない。
例えば、僕は確かに数学の知識のおかげで現在の職を得ているが、これなんかは
社会が大事だと取り扱う → 大事である 
というトートロジーのおかげさまで、実質的なものがあるのかは相当に疑わしい。


同じように、よく経済学部の授業で統計学、あるいは線形代数、あるいは位相論を教えたりしているけれど、
これも教授たちが必要だ必要だと言っている割には、
実際の社会で重要な決定をしているビジネスマンたちはまったく使っていないのは
ビジネス書のすべてが、コンセプトとスローガンのみで、まったく数理解析的な要素はないことから明らかだ。
つまり、教授たちが大切だと思うから大切という、価値の押し付け的循環になっているわけだ。


ここで数学的な素養がある種の発想につながっているという可能性も否定はできないのだろうが、
しかし、そういったものが不可欠だと言う感じはしない。
というわけで、普通のビジネスマンになるのに果たして数学なんて教育する必要があるのだろうか?


あらゆる相場の予測でさえもIto's lemmaを駆使するクオンツと同じように、
体育会系の反射神経たちが大活躍しているのは紛れもない事実だ。


もちろん、誰がビジネスマンになり、誰がエンジニアになるのか、事前にはわからないのだから、
数学が教育として誰にとっても必要だと言うのはマトモな意見だと思う。
しかしそれにしても、明らかに四則演算を超えた数学なんか使わないだろうという人物も非常に多いだろう。
僕自身も、中学以降の数学を実生活で使ったことなんかないと思う(あえて言うなら利子率の乗数計算ぐらいか)。


また僕には小学生の子供がいるが、僕が身近で見るところでは、
彼女がその生涯の思考において数学を使う可能性はほとんどなさそうだ(まず間違いない)。
そしてまた、私立の文系学部は数学なしで入学できるし、それは今後も同じだろう。
(果たして大学で文学なんかを勉強する意義があるのか、とかいう本質的な疑問はさておき。)


数学を勉強する時間は別の語学か何かを勉強できるし、あるいはスポーツを楽しんでも、あるいはただ無為に遊んでもいい。
数学が語学と同じように大事だと僕がいうのは、僕自身がもう一度生まれたらそうしてもらいたい、という限定的な価値観の表明に過ぎない。
果たして、みんながほんとにそんなことを本気で思っているのだろうか?
この辺はリバタリアンな発想の僕は、どうしても実は国家的な価値観の押し付けなのではないのかと常に疑ってしまうのだが、、、