kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

コンドルセと人間の無限可塑性

前に教育学はわけわからないことが多いという例として、
シュタイナー教育について書いた。
小生はおそらくほとんどの社会系の学問の教科書を大学時代に読んだが、
最も共感できなかったのは教育学だったように思う。


ルソーはいうまでもなく教育学のスーパースターだが、
ここではコンドルセについて考えてみよう。
(たまたま今読んでいる本にコンドルセが引用されていたから。)


コンドルセはフランスの貴族に生まれた。
啓蒙思想家としてはティルゴーの片腕となり
若干の解析数学的な足跡を残している。
また投票のパラドクスという社会行為に数学を応用する先駆的な試み、
ジャコバン派に殺された革命期の政治家、として知られている。
しかし、もっとも著名なのは『人間精神進歩の歴史』という、
オプティミズムの歴史についての思想書だろう。


そこでは、因習的な迷妄から解き放たれた人類の理性と社会は大発展し、
犯罪や貧困なども無くなるというのである。
これはルソーも真っ青の楽天主義的な理性礼賛の書であり、
教育の効果の最大限の予測をなしているといっていいだろう。


こういった教育の無限の可能性、人間性の無限の可塑性、
といったテーマは左翼進歩主義ではよく見かけるし、
小生が高校まで愛読していた「赤旗」においても
当然の常識として背景的に主張されている。


極端な話が、人間の知力には何の先天的な能力差もないという。
しかし、なぜスポーツの才能、音楽の才能の個人差を認めながら、
学術だけについては平等だと考えるのか? 理解に苦しむ。
おそらく、このような思い込みこそが、
知性というものがHomo Sapienceの特徴であり、
最重要なのだという、価値観における偏見の表れなのだろう。


これに対して、保守主義では、
人間には生まれ持った知的能力や善悪の素養があり、
現在ある世界はそれを反映している。
そして、生まれつきの天才もいれば、どうしようもない悪人もいる、
それを前提に努力するしかない、というようなものだろう。
つまり、保守主義もある程度の教育の効果を認めるだろうが、
それは無限の可能性を持つとまでは考えないということか。


この意味では、なるほど生物学を人間に当てはめるのは「保守主義」の行為であり、
Politically correctな行為とは、
人間の無限の変容可能性を認めることになるのが納得される。


小生は、人間の理性的な理解の可能性を信じるという意味においては左翼的だが、
だからといって無限の教育や訓練の可能性を認めるというわけではないから、
この意味では保守的なのだろう。難しいものだ。
皆さんはどうお考えだろうか?