kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

見えるものと見えないもの7章 規制

GM、クライスラーが破綻して、そういった関連の話を聞くことも多いけれど、
アメリカにはグーグルやアップル、マイクロソフトその他の多くの会社がある。
何もいまさら自動車なんか作らなくても、いいように思うのだが、、、


関連して、今はプリウスがバカ受けしているようだけど、
僕はインドのタタの作る22万円の車のほうが興味深んじゃないかと思う。
ネットブックが2年のうちにほとんど主流になってきたのと同じように、
大きな爆発力があるのではないだろうか?


とはいっても、自動車には人命がかかっているので、
先進国ではひじょうにさまざまな規制がある。
なので、パソコンに比べて10倍ぐらいは時間がかかりそうではある。


さて、僕はバスティアの7章:規制 を訳してみました。


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7.規制

 M・プロヒバン(この名前をつけたのは私ではなく、M・シャルル・デュパンである)(訳注:「禁止さん」とでも訳されるほどの名前)は、自分の土地で見つかった鉄鉱石を精錬するのに大変な時間と資産を投じた。自然はベルギーにおいてより豊かであるため、ベルギー人はフランスに対してM・プロヒバンよりも安く鉄を供給した。それはつまり、すべてのフランス人、あるいはフランスは、誠実なベルギー人から買うことによって、より少ない労働量で一定量の鉄を入手することができるということだ。よって、自分の利益に導かれてフランス人はそうすることを怠らず、毎日大勢の釘職人、鍛冶屋、車大工、機械工、蹄鉄工、それらの助工が、自分が出向いたり、あるいは仲介人を送ってベルギーで鉄を調達したのであろう。このことはM・プロヒバンを大変に不愉快にさせた。

 当初、彼はこの逆境に対して自分の力で終止符をうとうとした。しかし彼一人が困っているため、それは到底不可能だった。「私は銃を使う」彼は言った。「ベルトに4つのピストルを装着し、カートリッジもつめて、刀を纏い、この装備で国境に行く。そこで、私と関係のない仕事をするために現れた最初の鍛冶屋、釘職人、蹄鉄工、機械工、錠職人を殺し、彼らにどうやって生きるべきかを教えるのだ。」それを実行しようとした瞬間、M・プロヒバンは考え直してみて、戦争じみた意気込みを少しばかり落ち着かせた。彼は独り言を言った、「そもそも、私の同郷人であり敵でもある鉄の購入者が悪意にとって、彼らを殺す代わりに、彼らが私を殺すことも、まんざら不可能でもない。そして、私がすべての従業員を呼び出したところで、通行口をとめることはできないだろう。つまり、これは金をもたらす以上に、大きなコストがかかるだろう。」

 M・プロヒバンの脳裏に光線が走ったとき、彼は、自分が他人と同じ程度にしか自由ではないという、その悲しい運命から脱却できることに気づいた。パリには立法産業があることを思い出したのだ。「法とは何だ?」彼はつぶやいた。「それはいったん成立すると、良いものだろうが、悪いものだろうが、全員がそれを守らなければならないものだ。同じことをするために、公共力が組織され、その公共力のために国中から人と金が集められる。だから、もし私が偉大なパリの産業に『ベルギーの鉄は禁止』という些細な法律を通してもらえば、次のような結果を得ることができるのだ。つまり政府が、私が国境に送ろうとしていた数人の従業員の代わりに、あの手に負えない鍛冶屋、農民、職人、機械工、錠職人、釘職人、助工たちの2万人にも及ぶ息子たちを送ってくれる。そして、これら2万人の税関の役人を機嫌よく生活させるために、政府は鍛冶屋、釘職人、職人、助工たちから2500万フランを集めて配るだろう。彼らは国境をよりよく守ってくれる。そして私は出費をすることがない。私は仲買人の脅威にさらされることもなく、自分の好きな価格で鉄を売ることができ、さらに偉大な同胞たちが恥ずべきような誤魔化しを受けるという甘美な満足さえも得る。彼らは、自分自身が永遠にヨーロッパの進歩を増進し、その先駆けであるとまで主張するだろう。オー! それは素晴らしいジョークだが試してみる価値はある。」

 こうしてM・プロヒバンは立法産業に赴いた。おそらくまたいつか彼の袖の下の話にも触れようと思うが、しかし今は、彼の表向きに行動についてだけ述べよう。彼は立法議員諸氏の前に、以下のような考慮をしてもらうよう持ち出した。

「ベルギーの鉄はフランスでは10フランで売られており、私もまた同じ価格で売るよう強要されています。私は15フランで売りたいのですが、ベルギーからの鉄のためにそれができません。まったく、ベルギーの鉄は紅海の底に沈んでもらいたいと願っております。私は、ベルギー産の鉄がフランスに輸入できないような法を要請いたします。即座に私は価格を5フラン上げ、次のような結果を得ることができます。「100単位の鉄ごとに、私は10フランではなく、15フランを受け取ります。私はより豊かになり、産業道路を伸ばし、より多くの労働者を雇います。私たちは近隣の商人に対してもっと鷹揚にお金を使うことになります。商人は顧客が増えて、より多くを雇い、この国のどの産業もが盛んになります。あなた方が私の金庫に与えてくれます幸運なるわずかな金銭は、湖に投げ込まれた石のように、無限の波紋を生み出すのです。」

 この議論に魅せられて、立法によって容易に人々の繁栄を促進できることを喜び、立法者たちは規制に投票した。「労働や経済について言うなら」彼らは言った、「国の富を増進させるために、命令が必要なだけだというのに、こういった苦痛を伴うような手段に何の意味があるというのか?」

 そして、実際、法律はM・プロヒバンによって喧伝された通りのすべての結果をもたらした。一つだけ違うのは、彼が予見しなかったことももたらしということだ。彼に対して公平であるなら、彼の理由付けは間違いではなかった。ただ不完全だったのだ。特権を得ようと努力するなかで、彼は見える効果だけを認識し、その背後にある見えないものを忘れていたのである。彼は二当事者だけについて指摘したのだが、この事態には三者がかかわっている。私たちが指摘するのは、この意図せざる、あるいは論点の前にある省略なのだ。

 法律によってM・プロヒバンの金庫にもたらされたクラウン銀貨が、彼とその労働者にとって有利なものであったのは真実だ。そしてもし、法律によってクラウン銀貨が月から降って来たというのであれば、これらのよい効果は、それに対応する悪い効果によって打ち消されることはなかっただろう。不幸なことに、その不思議な銀貨は月から来たのではなくて、鍛冶屋、釘職人、車職人、蹄鉄工、助工、あるいは船大工、つまりは10フランを支払って前より少ない鉄しか受け取れなくなったジャック・ボノムのポケットから来ているのだ。よって、これが状況を変えたことは一目瞭然だ。なぜならM・プロヒバンの利益は、ジャック・ボノムの損失と釣り合っていること、そしてM・プロヒバンがその銀貨によって国の労働を奨励するためにできることのすべては、ジャック・ボノムが自分自身でできたこと、が明らかだからだ。石が湖の一方から投げられたのは、別の方向から投げられるのを法律が禁止したからなのである。

 よって、見えないものは見えるものを凌駕しており、この時点でこの一連の行為の結果として不正義が残り、悲しいことに、法によって不正は永続する。

 これがすべてではない。私は、常に第三者が背景に取り残されていると言った。さらにもう5フランの損失を明らかにしてくれる者を前面に引き会いに出そう。それによって、取り引きのすべての結果が明るみに出ることになる。

 ジャック・ボノムはその労働の対価である15フランの持ち主だ。今彼は自由だ。彼はその15フランをどうするのだろうか? 彼は何か流行りものを10フランで買い、そのために彼(あるいは彼の仲買人)はベルギーの鉄100単位分を支払う。その後、彼には5フランが残る。彼はそれを皮に投げ捨てることはせず、その代わりに(これが見えないものだが)誰か商人に、その何らかの楽しみのために、例えば、本屋にボシュエの『世界史序説』と引き換えに使うのだ。

 よって、国民の労働が関連する限り、15フラン分が促進されている。すなわち、10フランはパリの商品に、5フランは本の取り引きに。

 ジャック・ボノムについては、彼は15フランによって二つの満足を得る。つまり

 一番目、100単位の鉄。

 二番目、本。

 命令は執行される。それはジャック・ボノムの状況をどう変化させるだろうか? それは国民の労働をどう変化させるだろうか? 

 ジャック・ボノムは5フランすべてをM・プロヒバンに支払い、そのために本の楽しみ、あるいはそれと同じ価値を持つ何か別のものを奪われてしまう。彼は5フラン損をしている。これは認識されなければならない。規制が物の値段を引き上げるとき、消費者はその差額分の損をするのだということは、決して見落とされてはならない。

 とはいえ、国民の雇用にとっては得るものがある、と言われる。

 違う。得るものはない。なぜなら、法律によって、15フラン以上に雇用が促進されているわけでないからだ。

 唯一の違いは、法律のために、ジャック・ボノムの15フランは金属取り引きに使われたが、その施行以前には、炭鉱業と出版業に別れていたということだ。

 M・プロヒバンが国境において使った、あるいは法律によって彼が使わせるように仕向けた暴力は、道徳的な視点からは、非常に異なって判断されるかもしれない。法律によって肯定されるならば、その略奪は完全に是認できると考えるものもあるだろう。しかし、私にとっては、それよりも破壊的なものを想像できない。それが何であれ、経済的な結果は両方において同じなのである。

 好きなように見てもいいだろう。しかしもし公平であるなら、不正は順法、違法の略奪の双方から生じていることがわかるだろう。それがM・プロヒバンとその商人、もしそう望むなら、国内産業を5フランの利益分だけ豊かにすることは否定できない。しかしそれは二つの損失を生じさせると断言できる。一つはジャック・ボノムのもので、彼はそもそも10フランしか支払わなかったはずなのに15フランを支払った。もう一つは国内産業であり、それは差額を受け取ることができなかった。これらの二つの損失のどちらでも選んで、利益とつり合わせるがいい。もう片方の損失は完全な損失であることがわかる。教訓はこうだ、暴力によって奪うのは生産ではなくて、破壊なのだ。実際のところ、暴力で奪うことが生産なら、我われのこの国は今あるよりももう少し豊かだろう。