小生は確か3年ほど前にD.フリードマンの「Law's Order 法の秩序」を訳そうと思って、
森村さんに頼んでもらったのだけれど、すでに版権が取られていたという経緯がある。
この本は素晴らしい本で、すべての法律家に読んでもらいたい。
そんなことはありえないだろうが、、、
それにしても、多くの翻訳家は仕事が遅すぎる。
あれから一向に翻訳が出ていない。
そういえば、キャプランの「選挙の経済学」も最近やっと翻訳が出た。
以下には著名な法律アーティクルであるマーガレット・ラディンの「商品化」の議論についての
反論が素晴らしくまとまっている。ついでにネコ科の余談も。
全訳ができなかったのは残念ですが、
一部を勝手に訳しましたので、楽しんでみてください。
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Law's Order chapter 13 "Marriage, Sex and Babies" pp.180-85
http://www.daviddfriedman.com/laws_order/index.shtml
赤ちゃんを買う
数年前、私はウオールストリートジャーナル載っていた記事を読んで大変に驚いた。経済新聞の記者たちが知っていると私が期待していた経済知識に比べて、あまりにも彼らが無知だったからだ。それは「養子市場」についてだった。ライターは、市場が不足と余剰の間を大きく振れてきたことを論じていた。子どもが養親を見つけられないときと、養親たちが適当な子どもを見つけられない時期があったのだ。そして記事は、自由市場の失敗を示しているのだと結論していた。
記事には、見逃していた小さなポイントがあった。アメリカの法律では、未来の養親が、子どもを養子にする際にその母親に金銭支払いをすることを禁止しているのだ。つまり、養子市場は、法によって価格がゼロに決められている「自由市場」なのだ。規制価格が市場価格を下回った場合に不足が生じ、上回った場合には余剰が生じることが観察されるのは、驚きではないし、自由市場の失敗でもない。
価格規制によって生じる不足に対処する方法は、少なくとも3通りある。一番簡単なのは、順番によるものだ。アメリカはニクソン大統領の時代にガソリンの価格規制を試したが、その結果はガソリンスタンドの長い行列だった。行列を待つのはコストなので、行列が十分に長くなれば、ガソリンの金銭的コストと行列待ちコストの合計価格が十分に高くなり、需要量は供給量に見合うところまで減少する。現在の養子市場では、未来の養親は、子どもを養子にするまでに、しばしば数年間も待つ。
二番目の問題対処法は、割り当てによるものだ。何らかの権威が、潜在的な買い手の誰に、限りのある供給のどれだけを割り当てるかを決める。養子の市場の場合、法的な養子縁組をアレンジすることを許された組織が割り当てを行う。彼らは自分たち自身の基準を押し付け、それによって潜在的な養親の数を減らし、それに残った人々に縁組を取り持つ。彼らの使う基準のどれだけかは、養親として最もふさわしい応募者を選ぶ試みとして、正当化することができるかもしれない。他のもの、例えば、「養親は生みの母親と同じ宗教でなくてはならない」などは、主に応募者の数を減らすという意味を持っているように思われる。
価格規制の第3のやり方は、ブラック・マーケットによる。養親が、縁組を行う弁護士に費用を支払うことや、生みの母親の医療費への支払いをすることは合法だ。現在、健康な白人の乳児を私的に養子縁組するための費用は数万ドル程度だが、これは出産に伴う金銭的な出費をはるかに上回っている。おそらくは、別の費目として計上はされていても、どれだけかは同意を取り付けるために生みの母親に対しての、またどれだけかは取引を取り計らった弁護士に対しての、違法な支払いになっているのだろう。
他の市場と同じように、この養子の市場においても、価格規制をなくし、養親と生みの母親の双方に合意条件を自由に交渉させることによって、問題もなくせるだろう。この解決方法は、他の人々とともに、ポズナー判事によって提案されてきたものだ。彼の同僚の法学者の間では、彼が同世代の中で抜きん出た法学者であり、法律家であるにもかかわらず、この事実だけでも彼が最高裁判所に行くことはないと広く信じられているのである。一体どの上院議員が、乳児売買を公的に支持した候補を信任するだろうか?
注 Richard Posner, "The Regulation of the Market in Adoptions," 67 Boston University Law Review 59 (1987).以下も見よ Boudreaux, Donald, "A Modest Proposal to Deregulate Infant Adoptions, Cato Journal, vol 15 no. 1 (Spring/Summer 1995).
こうした提案は、なぜそれほどに否定的な反応を引き起こすのだろうか? 明らかな返答は、それは人身売買を伴うものであり、人は所有されるべきではない、というものだ。しかし、養親が手に入れるものは、乳児の所有権ではなく、乳児に対する親権(と義務)である。もしその意味で子どもを「所有する」ことに反対なら、現在の法律制度においては、実のあるいは育ての親が所有者であることに、なぜ同じように反対しないのだろうか?
養子の自由市場に対するもっと良い反論は、自由市場は養親と生みの母親という取引関係者の利益を最大化するだろうが、子どもへのコストや利益を無視するかもしれない、というものだ。しかし、現在のシステムにおいても乳児は声を上げることができない以上、なぜ自由市場のほうがもっとそうだといえるのかを理解することは難しい。子どもを養子にするために支払いをする意志のある人々は、普通は親になりたい人たちであり、それは結局、その仕事にもっともふさわしい要件の一つだ。3年間待って、多くの書類を書き込む意志や、あるいは適切なコネを持った弁護士を見つける能力や、その支払いをする意志を持つことが、なぜもっと良い証拠なのか? 養子縁組組織はその主目的として、養子の福祉についての要件を課していると主張するが、しかし、なぜ私たちは、彼らに養親や生みの親よりも子どもの福祉をもっと気にかけることを期待できるというのだろうか? 乳児は生みの親と養親に大きな影響を与えるが、縁組組織の経営にはほとんど影響を与えない。
もっと興味深くて、はるかに応用の範囲が広い議論は、「商品化」という名において行われる。2者間の取り引きが他者にも影響を与えるという考えだ。それは、経済学者の外部性の分析において含まれるような直接的なやり方ではなく、人々の考え方を変化させるという、もっと微妙なやり方においてである。もし我われが乳児の対価として金銭支払いを許すなら、それが乳児の親権についてであったとしても、私たちは乳児のことを人間ではなく、自動車や宝石、市場取り引き商品のような物として考え始める。売春婦とその顧客の間の現金支払いを許すなら、私たちはセックスを愛情関係の一部ではなくて、女性が売るサービスとして考え始める。よって広く引用されている法律雑誌記事におけるマーガレット・ラディンの議論によると、もしも売春許可が売春婦とその顧客の双方をより豊かにするとしても、それを許可することはセックスを商品化し、普通の男と女をより貧しくするという理由において、禁止がやはり適切であるかもしれない。似たような理由において、養子の自由市場を禁止するのが適切であるかもしれない。
注 Radin, Margaret, "Market-Inalienability" 100 Harvard Law Review 1849, (1987)
私はこの議論はすばらしく独創的だが、説得的ではないと思う。売春が普通であるところでさえ、売春婦、顧客、他人を含めて、それがセックスがそうあるべきモデルであると考える人はほとんどいない。男が売春婦と寝るのは、自分を愛してくれる女と寝るのを好まないからではなく、彼らを愛して寝てくれようとする適当な女がいないからだ。
また別の議論の暗黙の前提には、人々の行動よりも法律が何と言っているかの方が重要だというものがある。ラディンが認識しているように、売春はネヴァダ州の2つの田舎の郡でのみ合法であるにもかかわらず、現在アメリカ全土に存在している。現在、養親は養子を得るために、おそらく直接支払いが合法であった場合よりも多くの金を支払っている。なぜなら、価格規制された商品の真のコストは、待ち時間や偽装支払い、その他を含んでおり、価格規制のない合法的な市場の同じ商品のコストよりも通常高いからだ。
そうした取り引きを合法化することによって、人々がそれを正当なものだとみなすという議論は、2つの仮定を必要とするが、どちらも本当でありそうもない。第1は、もし何かが非合法でないなら、それは良いものであるに違いない、というものだ。それはT・H・ホワイトの「アリの巣」の一般的な発想に従った社会を示唆するが、そこではすべてのものが禁じられているか、あるいは強制的かのどちらかである。私的な賭博行為が非合法であるにもかかわらず、多くの州が宝くじを公営している国では、私たちの多くが、良い・悪い、と合法・非合法をほとんど同一視しているとは信じがたい。
第2に必要とされる仮定は、人々が政府を道徳的な権威の源であるとみなすというものである。最近の世論調査では、政府は支持率においてかなり低い評価しか受けていない。ウィリアム・ゴドウィンが、道徳を教育するために公営の学校制度が必要だと言う議論に対して、ほとんど200年前に反論したように、「人間は、それほどに重要なレッスンを、それほどに腐敗した経路から受ける必要など全くない」と期待できるだろう。
「商品化」は独創的な議論だが、見かけよりも真新しいものではない。それは単に、非道徳的な行為と言論の自由の両方に反対する、伝統的な社会的保守主義の議論に過ぎない。つまり、思考が問題なのであり、悪い原則を説いたり、示したりすることは、悪い行動につながるというのである。
この視点から見ると、売春の禁止法がなぜ肯定されるのかについてのラディンの議論は、合衆国憲法修正第1条の立法とはうまく適合していない。裁判所は繰り返し、アメリカ国旗を燃やすような行為を禁止するのは適切であるとしながらも、それは同時に言論でもあり、言論であるがゆえに法的に保護されると判示してきた。商品化の議論は、売春婦と顧客の取り引きなどは、行為としては禁止されるべきではないが、それは同時に言論でもあり、悪い言論であるがゆえに禁止されるべきだと主張している。その主張には論理的に正当化できないものは何も含まれていないが、いったんそれが認められるなら、悪い考えに対しての政府の検閲を肯定するような、より広範な議論をなぜ受け入れないのかという理由を見出すことは難しくなる。
私はこの種の議論に対してたいへんな時間を費やしてきたが、それはそれらが興味深いという理由からだけでなく、それらが新たな生殖技術によって提起される一連の重要な法的問題に関連しているからである。そういった技術の1つは体外受精であるが、これは現在すでに広く一般的になり、受け入れられている。第2の、技術的にもっと単純なものは代理母であるが、それは未だに論争の的である。裁判所は、不妊の妻を持つ夫の精子によって人工的に受精し、結果的に生まれてくる子どもを夫婦の養子とする契約に合意した女性に対しての、契約の強制執行には一般的に積極的ではない。第3の、成人の細胞からのクローニングによって乳児を作り出す方法は、知られている限り、未だに行われていないが、現時点でもほとんど確実に可能だ。近い将来には、親が作り出しえる子どものうち、どの子供を生育させるかについてのコントロールが可能になる。そして、おそらくもう少し遠い未来には、親が自然には作り出しえない性質を子どもに与えることも可能になるだろう。マウスに対して試みられた、その他の技術は人間にも応用することができ、それはレズビアンの夫婦がその両者の遺伝的な子どもを持つことを可能にする。
これらすべての実践は、これまでも養子市場を合法化に対する既存の批判と同じような批判を受けてきたし、将来も受けることになるだろう。議論の中には、取り引きは自発的であったとしても、参加者の誰かが不利になっているというものもあるだろう。それには、想像上の子どもの利益に基づくものもあり、その暗黙の前提には、新しい技術を利用する親は、古くからのやり方で子どもを持つ親に比べて思い入れが少ないだろう、というものがある。そういった考えは、新しい技術は自然に反するものであり、人間の命が取り扱われるべきではない方法で取り扱われているという、深く根ざした信念によって動機付けられている。新しいものは恐ろしいものだ。
「この新たな技術やその他の多くの技術が示していることは、人間の生殖、人間の生物学には、1点を除いて、何も特別なことはないということだ。人間の特別さは私たちの両耳の間にのみ存在しており、その他のどこを探しても失望することになるだろう。」マウス遺伝学者Lee Silver、ヒトの細胞を動物の睾丸に埋め込んでヒトの精子を生産することを可能にする技術が、<人間の特別性>を脅かすという点を憂慮する生命倫理学者への返答において
新しい生殖技術に伴う取り引きに反対する議論は数多くの裁判所で広がるだろうが、そのことは技術がどれほど広範に利用されるかということにはほとんど影響を与えないだろう。代理母の契約について考えてもらいたい。そういった契約は少なくとも1つの州において犯罪とされており、ほとんどの州では異なった程度において強制執行は不可能である。しかし、それは実際に起こっていることにほとんど影響を与えていない。そういった取り引きを使用とする人は場所を選ぶことができるため、当然に有利な州を選ぶからだ。契約を完全に執行できないところでさえも、代理母の斡旋事業をする会社が、契約が執行できないことを利用して契約棄をしようとするような代理母を特定し、避けることを学ぶにつれてそういった事実は重要ではなくなってきた。
注 リー・M・シルヴァー 「複製されるヒト」 紀伊国屋書店。こうした技術とその結果についての科学以前のフィクションとしての記述はロバート・ハインライン 「未知の地平線」ハヤカワ文庫 を見よ。遺伝子工学の人間への潜在的な応用の、直接的な科学的な基礎は、「ヒトゲノムプロジェクトhuman genome project」である。
余った子ネコを割り当てる:ネコ科の(卑怯な)余談
訳注 Felineには「ネコ科の」という意味と、「卑怯な、ずるい」という意味の両方があります。
幾分前のことだが、私の子どもたちが子ネコを飼うことを決めたので、私たちは地域の人道協会まで出向いた。それは興味深い体験だった。私たちは、ペットを「養子にする」ための少ない数の許可をもらうために、行列に並び、書類に記入し、その後、確かに私たちが適切な飼い主であることを確認するために、人道協会の従業員からの面接を受けることで、数時間を過ごす羽目に陥ってしまった。
その体験で不可解だったのは、子ネコは余っている品物だということだ。人道協会には、飼い主を見つけることができる数以上の子ネコ(やネコ、子イヌ、イヌ)がおり、彼らはそう言いたがらないものの、余った動物たちを日常的に殺している。余剰品の割り当ては、通常は問題にはならない。にもかかわらず、人道協会は意図的に、子ネコの飼い主になることを時間的、労力的に高くつくことにして、どのラッキーな人たちが飼い主になれるのかを選ぼうとしている。彼らは、飼い主を見つけることのできなかった動物の行く先が、別の飼い主ではなくて死であることを知っていながらである。なぜだろうか?
理由の一部は、彼らが2時間に7つの許可しか出さないことにある。それは、スタッフ数の制限と、それぞれの飼い主がチェックされて指導を受ける必要性を前提にすると、それだけがプロセス的な限界だからだ。しかし、それは2つ目の疑問を提起する。彼らはやってくる人たちのすべてに対応するスタッフ数がないのに、なぜ詳細な面接をしようとするのか?より良い飼い主は子ネコの立場からして疑いなくより素晴らしいが、ほとんどどんな飼い主でも、飼われないという代替案、つまり殺されるよりはマシだ。
私が見る限り、このプロセスの真の唯一の機能は、謙虚な申請者に対して指導と恩恵を与えることによって、従業員に、自分たちが重要で力があると感じさせることだ。この疑いは、私たちを面接した女性が、ネコは決して屋外に出してはならないと非常に強く指導し、私たちがネコを屋内に留めないなら彼女は許可を与えないと言わんばかりになったことによって、より強められた。彼女をさらに問い詰めると、彼女はそのルールを自分のネコには適用していないことが判明した。
私たちはペットなしでセンターから離れることになり、友人から2匹の子ネコを譲り受け(、子ネコたちはとてもステキなネコに育っ)た。私は地元の新聞に不服の手紙を送り、そのコピーを人道協会に送った。その結果は、そのアニマル・シェルターを運営している女性の1人との長い電話での会話となった。彼女は、そういったシェルターには2つのモデルがあるのだと言った。1つは、動物がほとんど質問なしで引き渡されるものであり、もう1つは、私が体験したような、ある種の「養子手続き」を必要とするものである。彼女のシェルターのポリシーの真の効果は、飼い主を見つけらて生きれたはずの動物を殺してしまうことであると私が指摘すると、彼女は、もう一つのポリシーを採用すれば、従業員は動物を無責任に取り扱っていると感じて、誰もシェルターで働かなくなるだろう、と答えた。それは私には、私がすでに先に述べた説明の、より心優しげなヴァージョンであると感じられた。
どの乳児がどの親の元に行くのかの判断が縁組組織によってなされる場合、彼らが子どもの福祉を自分たちの福祉に優先すると期待するための良い理由は存在しない。同じ種類の判断がペットについてなされる場合、彼らが動物の福祉、あるいは命を、自分たちの感情に優先すると期待するための良い理由は存在しない。
注 私の人道協会へのコメントに対するHate mail は DDFr@Best.com. まで。奇妙なことに、この原稿を読んだ人の2人がかなり似たような経験をしていた。