さて、小生は一日に少しずつではありますが、
「見えるものと、見えないもの」を訳しております。
ところが、わからない文章もあって、ピンチもあります。
大体の場合は、
オリジナルのフランス語を(オンライン辞書と一緒に)読むと解決するのですが、
僕のフランス語の知識はたいへんに限られているので、
わからないこともあります(だれか助けてください!)。
さて関係ない日常の雑事としては、
先日また家族とディズニーランドに行ってきました。
いつ行ってもアメリカの伝統的な音楽(national anthemなど)が
高らかにmarching bandによって演奏されていて、
無政府主義者である小生は不思議な気がするのです。
同じコンテキストですが、子どもは
小学校の校庭で毎朝繰り返されるstars and stripesへのa pledge of allegience(だったか?)を聞き、
または、あらゆる商業、公共施設で翻る日本よりもはるかに数多くのアメリカ国旗を見て、
たいへんに素晴らしいから、日本でもやればいい言います。
こういったことは、大学時代以降に渡米した自分には「見えないもの」だったのでしょう。
が、おそらくそれは不思議でもなんでもなくて、
日本の侵略の歴史が左翼を自虐史観に駆り立てているのであって、
愛国心とは右翼左翼を問わず、人間にとってあまりにも自然なことなのだと思います。
かく言う小生も、赤紙に呼ばれていれば、間違いなく、
敵性国民のすべてを皆殺しにすべく銃をとっていたと思います。
あるいはそのために、小生が反対に殺されていたのでしょう。
国家(これが家という字を含んでいること自体が日本人、あるいはアジア人の思考を表わしているが、)とは、
かくも、たいへんに難しい存在なのでしょう。
6.仲介人
社会というのは、人々が互いのために自発的、あるいは強制的に提供するサービスの総和である。それはつまり、公共サービスと民間サービスのことだ。
前者は法律によって規制・強制されており、望ましい場合にも容易には変えることができない。それは、もはやサービスではまったくなく、公共迷惑となっているときでも、それ自身に対する有用性だけで公共サービスという名を保持し続けることがある。後者は自由意志、個人の責任の領域にある。すべての人が、その望み、可能であるものを、熟慮の後に与え、受け取る。それらには常に、相対的価値に完全に比例して、真の効用が推定される。
これが、前者のサービスがこれほど頻繁に停滞的になるのに対して、後者が進歩の法則に従う理由なのである。
過剰な公共サービスの発達は、社会の持つ強靭さをくじきながら、社会に対して致命的なへつらいを植えつけている。他方、それとまったく同根なのが、現代の諸学派が、こういった性質を自由で私的なサービスに帰しながら、知的職業を儀式へと変更しようと試みていることだ。
これらの学派は、彼らが仲介人と呼ぶものに強行に反対する。彼らは資本家、銀行家、投機家、事業家、商人、貿易商のことを、生産と消費の間に立ち入って、何も見返りに与えないままに両者から金を要求していると非難して、喜んで抑圧するだろう。あるいはむしろ、彼ら自身の仕事を国家に委譲しさえするだろう。なぜならその仕事は抑圧することができないものだから。
この点における社会主義者の詭弁は、仲介人がそのサービスの対価として得ているものを人々に示しながら、国家に対して支払う必要となっているものを隠していることにある。これは、我われの目の前にあるものと、心でしか把握できないもの、見えるものと見えないものとの間に、常に存在する軋轢なのだ。
社会主義諸学派が、その致命的な理論を広めようと努力し、成功したのは、8147年の窮乏の時においてであった。もっとも馬鹿げた考えというものは常に、苦しんでいる人々にこそ広まる可能性があることを、彼らは熟知していたのだ。Malesuada fames (訳注:すいません!これは僕にはわからないラテン語?なので、誰か意味を教えてください。)
よって、「人による人の搾取、飢餓への投機、独占」という素晴らしい言葉の助けを受けて、彼らは商業を邪悪なものに仕立て上げ、その利益にヴェールを被せた。
彼らは言う、「アメリカやクリミア半島からの食料の輸入を商人に任せておいていいのか?
どうして国が、県が、町が店への貯蔵・供給サービスを組織しないのか?
そうすれば卸売価格で買うことのできるようになり、人々は、哀れなものたちは、自由な、つまりエゴイスティックで個人的、無秩序な商業への献金から逃れることができるだろう。」
人々が商業に支払う献金は、見えるものだ。社会主義体制において人々が国家やその代理に支払うだろう献金は、見えないものだ。
この人々が商業に支払っている献金のように見えるものは、何から成っているのだろう?それはつまり、競争と価格低下へのプレッシャーを受けつつも、完全に自由な状態において、二人の人間が互いに互恵的なサービスを与え合う、ということだ。
パリには飢えた胃袋があって、それを満たすトウモロコシがオデッサにある場合、トウモロコシが胃袋のもとへと運ばれなければ苦しみはなくならない。これには3つの手段がある。一つ目、飢えた者たちが自分でトウモロコシをとりに行くこと。二つ目、彼らは貿易を業とするするものたちにこの仕事を任せること。三つ目、彼らは一緒に集まって、公共機能を受け持つ事務所に任せること。これら三つのやり方の、どれがもっとも大きな利点を持っているだろうか?
どの時点においても、どの国においても、そしてより自由で啓蒙され、経験を多く持つ人々ほど、自発的に二つ目を選んできた。私の意見では、この事実だけで、選択を正当化するに十分であると思う。人類が、全体として、これほど身近なことに関して自分たち自身を欺き続けているとは思えないのだ。しかし、このことについて熟慮してみよう。
4600万人の市民がオデッサにトウモロコシをとりに行くというのは、明白に不可能だ。よって、最初の手段は意味を成さない。消費者が自分自身で行うということはできない。彼らは、必ずや、仲介人か、役所、あるいは代理商に頼らなければならない。
しかし、この3つのうち、最初のものがもっとも自然であることを考えてもらいたい。現実に、飢えた人はトウモロコシを手に入れなくてはならないのだ。それは彼自身の問題であり、彼にその責任がある。もし他のものが、どういった理由であれ、彼のために自らこの仕事を行うのであれば、その人は報酬を要求する権利を得る。私がここで言いたいのは、仲介はそれ自身のうちに、報酬原理を内在するということだ。
それが何であれ、私たちは社会主義者が寄生虫と呼ぶものについて話しているのであるから、商人と役所のどちらの方が、寄生虫にふさわしいかを私は問いたい。
商業(もちろん、自由なもの、そうでなくては議論が成り立たない)は、自らの利益の増進を図るために、時節を見はかり、収穫状況についての毎日説明し、世界のあらゆる地域からの情報を集め、そして需要を予見し、先んじた警戒をするのだと言える。常に船を用意し、随所で取引先を確保する。そして、できるだけ安い値段で買い、業務の細部にいたるまで節約し、もっとも少ない努力でもっとも大きな結果を達成するのは、直近の利益につながる。必要時にフランスへの供給物を調達することを仕事にするのは、フランスの商人たちだけではない。そしてもし彼らが必然的にもっとも少ない費用で仕事ができるのなら、それによって実現された節約の利益は、同業同士の競争によって、同じように必然的に消費者にも分け与えられることになる。トウモロコシは到着する。それをできる限り早く売るのは、リスクを回避し、その資金を回収し、もう一度最初から始めることになって、商人の利益となる。
相対的な価格に導かれて、最初は常にもっとも高い価格の場所から、つまり、もっとも需要の高いところから始まって、国の隅々まで食料が行き渡る。必要とする人々の利益に合致するように、これ以上に完全に計算された組織を考えることはできない。そしてこの組織の美点、それは社会主義者たちには認識されていないのだが、はそれが自由であるということからくる。陸運、海運、備蓄、手数料などの出費について消費者が業者に返済する義務を負うというのは確かに本当だが、一体、トウモロコシを食べるものがトウモロコシにあり付くための費用を、それがどういった費用であれ、支払う義務を負わないようなシステムなど考え付くことができるのだろうか?