kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

見えるものと見えないもの 4章

その昔、大学に通っていた時、
どうしてマイケル・シャンカーなどのヘヴィメタのギタリストは
国の予算からまったく補助を受ける道が存在しないのに、
クラッシック・ギターの演奏者は
日本芸術大学に入って補助を受けることができるのかを強く疑問に思った。
もちろん、別に小生がヘヴィメタが好きだからではなくて、
むしろ、それを聞かないからこそ、そういった疑問を持ったのだ(ただのヒネクレ)。


いまバスティアの「見えるものと見えないもの」の4章を訳していて、
そういった理不尽への若き反抗心を鮮明に思い出した。
なぜ、人は強制をそれほどまでに好むのか、なぜ人の趣味に優劣をつけようとするのか?


誰しもが小生のF1のように、大多数の他人にとって完全に無意味な趣味を持っているはずだ。
そういったモノのすべてを否定する社会が望ましいと本当に感じられるのだろうか?
社会性というのは、どうしても相手への強制を含むというのは、
それこそ部族社会から続く国家と、それに適合した心性なのに違いない。


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4.劇場と美術品
国は芸術を補助すべきなのか?

この質問への是非には、確かにたくさん言うべきことがある。肯定的な意見としては次のようなものがあるだろう。芸術は国の魂を拡大させ、昇華させ、調和させる。芸術は、物質的な欲求にあまりにも心を奪われてしまうのを防ぎ、美への愛を高め、それによってマナーや慣習、道徳、さらには産業にさえも好意的に働くだろう。もしイタリア座とコンセルヴァトワールがなかったら、フランスの音楽はどうなってしまうというのだろうか?
劇場芸術についてテアトル・フランスがなかったら? 絵画と彫刻について、現存のコレクション、ギャラリー、美術館がなかったなら?
中央集権化とそれによる芸術への保護がなかったら、フランス産業の高貴なる一部であり、世界にその製品を輸出している精緻なる感性は発達したのだろうか?
そういった結果を目の当たりにすると、フランス市民がある程度の金銭的貢献をするということを非難するというのは、不謹慎の極みなのではないのだろうか?
実際、ヨーロッパ的な視点から見て、それはフランスの優越性とその栄光の証左なのだ。

これら及びその他多くの理由の持つ説得力は論破することはできないものであり、そういった議論には反対できない。最初に言うべきだろうことは、そこには分配的正義の問題があるということだ。立法権は、芸術家の経済的な利益を増やすという理由のために、職人の工賃を下げるということにまで、拡大されるのだろうか?
M・ラマルタンが言ったように、「もし劇場への補助を止めてしまうのなら、どこでそれをストップするのだろうか?
大学への、美術館への、芸術院への、図書館への補助は止めなくてもいいのか?
もし役に立つよいようなすべてのものを援助したいのなら、どこでストップするのか?
それは必然的に農業、工業、商業、慈善から教育までの内政全般のリストにつながってしまうのではないだろうか?
そうだとするなら、政府が芸術の進歩を促進するのは当然だということになる。

この問題はすでに解決されたというには程遠いものであり、著名な劇場というのはそれ自身の獲得する対価によって繁栄していることがよく知られている。さらに、このことをさらに熟慮してみると、欲望や望みというものが相互に関連しており、市民の富がそれに費やされるに比例して洗練されてゆくものであることが観察されよう。そして、政府はこの関係に手出しをするべきではない。なぜなら、現在の富の存在状況において、有用性のある芸術活動を刺激するためには、奢侈品の特定をしないで課税をすることはできないが、それは必然的に文明の自然の発展に干渉してしまうからである。欲望、嗜好、労働や人口を人工的に変化させることは、確固とした基盤のない、気まぐれで危険な立場に人々を置き去りにしてしまうとさえ言えるだろう。

こういった理由付けが、市民の望みや欲望が充足される順番について国家が干渉するべきであり、その結果として、市民活動が方向付けられるべきだという考えに反対する人々によって主張されているものだ。白状するなら、私は、選択や衝動というのは、上からではなく下から、立法者からではなく市民から生じるべきものであると考えるものの一人だ。そして、その反対の主張は自由と人間の尊厳を破壊しがちであるように思われる。

しかし、不正であるだけでなく、誤りであると結論することによって、経済学者がどのように非難されるかご存知だろうか?それはつまり、政府の補助を否定するとき、その補助されるべきかどうか議論されているもの自体を否定しているように考えられてしまうのである。そしてまた、これらのすべての活動の敵であるようにも考えられてしまう。なぜなら私たちは、これらの活動は一方では完全に自由に、また他方では報酬の獲得を目指しつつ行われることを望むからだ。よって、もし私たちが、国家は宗教的な事柄に対して課税による干渉をするべきでないと考えるならば、私たちは無神論者になってしまう。課税によって教育に干渉してはならないといえば、教育への敵愾心を持っている。課税によって土地あるいは特定の産業分野に対して仮定的な価値を与えるべきではないと言うなら、財産や労働の敵である。もし国家が芸術家を補助するべきでないというのなら、芸術を無用なものと見下す野蛮人なのだ。

こうした結論に対して、私は全力を持って抗議するものである。私たちが、国家は、他の分野の活動を犠牲にしてまで宗教、教育、財産、労働、芸術を促進を図るべきではなく、それらの自由な発展を守るべきだというとき、これらのすべてを捨て去るという馬鹿げたアイデアを主張しているのではまったくない。その反対に、私たちが思うところでは、こういった社会の活力あるパワーは、自由の影響の下により調和的に発展するものなのだ。そして自由の下においては、それらが現在見られるように、トラブルや濫用、専制や混乱の原因となることはないだろう。

私たちへの反対者は、歳出によって補助されても、政府によって規制されてもいない活動というのは破壊されるべきものだと考えているのだ。私たちは、ちょうどその反対だと思っている。彼らの忠誠心は立法者にあって、人間にあるわけではない。反面、私たちのは人間にあって、立法者にはない。

よって、M・ラマルタンは言った(訳注:19世紀フランスの詩人、分筆家、政治家)。「この原理に基づいて、我われは、この国の誇りであり財産である公共展示を廃止しなければならない。」しかし、私はM・ラマルタンに言うだろう、「あなたの思考法では、補助しないというのは廃止することだ。なぜなら、国家の意思から独立して存在するものはないという格言にそって、あなたの結論では、存在するものはすべて国家がそうしようと意図したものとなる。しかし、私は、あなたが選んだまさに好例であるこの主張に反対する。そして、もっとも自由で普遍的な精神において、――いや人間性という言葉を使おう、それはまったく誇張などではない――もっとも壮麗で高貴な展示だと認められているものは、現在ロンドンで準備されている展示なのだ、ということを指摘させてもらおう。それはどのような政府の助力を得ているわけでもなく、どんな税金も投入されていない唯一のものなのだ。(訳蔵注:これは1850年のロンドン・ハイドパークでの第一回万国博覧会のこと。ガラスと鉄によるクリスタルパレスや各国の産物を集めた展覧会は、ロンドン市民からの入場料や寄付によって黒字となった。)

美術品に戻ろう。繰り返すなら、政府の援助システムには、賛否について提起されるべき多くの理由付けが存在する。読者に理解してもらいたいのは、この文章の目的は、これらの理由付けを説明するというものでもなければ、賛成あるいは反対の決定をすることでもないということである。

しかし、M・ラマルタンは、私がどうしても看過できない議論をしている。なぜなら、それは次の経済学と関連しているからだ。「劇場についての経済的な疑問は、一言でまとめられる。それは労働だ。この労働の本質が何であるかはほとんどどうでもよい。それは国内の他の労働と同じほどに実りの多い、生産的なものである。皆さんおわかりのように、フランスの劇場というのは、少なくとも8万人のさまざまな労働者の生活の糧となっている。石工、室内装飾家、衣装製作者、建築家、などなどの人々は、この首都のまさに生命であり活動なのである。この点において、皆さんは彼らに同情を与えるべきなのだ。」同情をだって!むしろ、お金を、と言いたまえ。

さらに彼は、「パリでの遊興は地方での労働と消費なのであり、金持ちの贅沢はすべての領域の20万人もの労働者の賃金と食べ物になっている。そういった人々は、共和国の外観を形成している劇場の周辺産業で生きているのであり、彼らは、フランスを光り輝かせているようなこれらの高貴なる遊興から、その家族や子どもの生命と必需品を得ているのだ。彼らにとっては6万フランをあなたからもらっているようなものなのだ。」(すばらしい、すばらしい。大喝采を。)私にとっては、「最悪だ、最悪だ!」と言わねばならない。これはもちろん、我われが議論している経済的な疑問についての、彼の意見に限ってのことではあるが。

なるほど、確かに6万フランのうち、どれだけかは劇場の労働者のもとに行くことになる。その過程で、おそらく、どれだけかの賄賂は差し引かれるだろうが。おそらく、このことをもう少し詳しく見てみるなら
ケーキはあるいはまったく違ったところへ行ってしまうのかもしれないし、あるいはそういった労働者たちは、幸運にもわずかばかりのケーキのトッピングにありついたのかもしれない。しかし、ここでは議論のために、画家や室内修飾家などに全部が回るということにしよう。

これは見えるものだ。しかし、いったいそれらはどこから来るのか?
これが疑問のもう一方の側面であり、同じくらいに重要なのだ。6万フランは、どこから発生したのか?そして、立法府の投票によってそのお金がリヴォリ通りへと、ついでグルネル通りへと回されなかったとするなら、どこへ行ったのだろうか?(蔵注:両方ともに華麗な装飾を持つパリの大通り。)
これは見えないものだ。もちろん、そのお金が立法府の投票によって投票箱の中で発生した、そしてそれは国富の純粋な増加分である、さらに奇跡の投票行為がなかったら、その6万フランは見ることも触れることもできなかっただろう、などと主張するものはいないだろう。多数者ができることというのは、お金をあるところから取って、別のところへ送ることだけであり、もしお金がある方向に向かうなら、それは別のところから方向を変えられたに過ぎない、ということを認めなくてはならない。

こういうことが現実であるため、1フランの貢献をした納税者は、そのお金を、もはや意のままにすることはできないということは明らかである。1フランの限りにおいて、彼はその満足を奪われたのであり、誰であれ、そのお金を彼から受け取るはずであった労働者は、そのお金を奪われたことになる。よって、6万フランについての投票によって、国の厚生と国民の労働に何かあるものが加えられたなどという、子どもじみた幻想には惑わされないようにしよう。それは楽しみを移転させ、賃金を移動させた、――それだけなのだ。

さてそれは、ある種の満足やある種の労働を、もっと緊急で道徳的、理にかなう満足や労働に置き換えたということはできるだろうか?
私はこれに反駁しよう。納税者から6万フランを取り上げることによって、瓦職人、排水職人、大工、鍛冶屋の賃金をオペラ歌手に比較して低下させているのだといえるだろう。

後者の職業に属する人々が、前者の職業の人たちよりも、より大きな同情に値すると信じる理由などは存在しない。M・ラマルタンはそうは言っていない。彼はただ、劇場関連の仕事は、その他の仕事とに比べてそれより多くではなく)同じほどに実り豊かで生産的だと言っているのだ。しかし、これには疑いがある。後者が前者ほどには実り豊かではないことの証明は、後者がまさに援助を必要としていることにあるのだ。

しかし、このような多様な労働の価値とその内在的な利点の比較というのは、私の現在議論していることではない。私がここで示しているのは、もしM・ラマルタンと彼のような議論を推し進める人たちが、喜劇の製作者たちの得る給与という片面だけを見るというのなら、その反面である納税者による給与の損失も見るべきだということだ。このことをしないために、彼らは愚かにも、移転を利得と勘違いしてしまっているからである。もし彼らが、彼らの主張に対して誠実であるのなら、政府の援助に対する要請量というのはきりがないことになる。なぜなら、1フランにも6万フランにも当てはまることは、同じ状況においては、何千億フランについても当てはまるからである。

皆さん、税が議論の対象になるときは、決して「公費支出は労働者を応援する」という嘆かわしい発言によってではなく、その効用を事柄の本質から説明せねばならない。そういった発言は、公費支出とは私的な支出を置き換えらたものであり、よって、ある労働者から別の労働者への糧へ移転させるだけで、労働者全体への分配には何も付け加えていないことを覆い隠しているのだ。そういった議論は流行なのかもしれないが、理性によって正当化されるにはあまりにも馬鹿げているのである。