kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

見えるものと見えないもの11章 倹約と贅沢

さて今日は11章「倹約と贅沢」です。


1950年のバスティアは書いてないのですが、
今の経済学の視点からすると、
貯蓄が道徳的に優れていると言う主張だけでなくて、
経済に関しても長期には優れていることは明らかです。


僕はこれについて、いろいろと過去に考えてみたことがあるのですが、
それは、全員が9割を貯蓄する社会とはどのようなものだろうか?
という疑問です。


もちろん、ここでは国際貿易や資本移動がないとします。
とすると、9割が貯蓄されるということは、それらの資金は何らかの投資活動に回るしかないですから、
おそらく資本投資はリターンがゼロか、あるいはマイナスになるくらいになされるだろうし、
あるいはR&Dも、リターンの期待値がマイナスになるほどに行われるはずです。


さてそういう社会は、確かに貯蓄のリターンはmarginal returnが低下するために低いかもしれないのですが、
未来への技術開発が大規模になされるため、経済成長率は大幅に高くなるはずです。
そういった社会が望ましいものであると言えるかどうかは、判断者の時間割引率に依存しますが、
総じて、いわゆる「成長型経済」が望ましいと言う人にとっては、望ましいはずです。
贅沢はあるいは生産設備の稼働率を高めるのかもしれませんが、
倹約的な社会のほうが長期的には成長率が高いはずです。


これは製薬や化学、半導体などの研究型の産業がなかった19世紀には言及することはなかったでしょうが、
いまとなっては明白です。
とはいえ、その割には、今も消費が伸びれば伸びるほどよいというエコノミストがいるのはなぜでしょうか?

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11.倹約と贅沢

 見えるものが見えないものを日食のように隠してしまうのは、何も公共支出だけのことではない。政治経済に関係することに加えて、この現象は誤った道徳的正当化へとつながってしまう。国内の道徳的利益と物質的利益が相反するものであるかのように見せるのだ。このことより落胆し、気がめいることなどあるだろうか? 例えば、

 秩序、統制、注意深さ、倹約や金使いを抑制することを、子どもに教えることを義務と考えない家父はいない。

 虚飾と贅沢を糾弾しない宗教はない。そうであるべきである。がその反対に、次のような格言をなんと頻繁に聞くことだろうか。

「貯蓄は、人々の生気を干上がらせてしまう。」

「高貴な人々の贅沢は、庶民の慰めである。」

「浪費は自らの破滅となるが、国を富ませる。」

「貧者のパンとなるのは、富者の余剰である。」

確かにここには、道徳的な考えと社会経済的な考えの間に目に余るほどの矛盾がある。この軋轢を指摘した後、どれだけの偉大なる人々が静穏を保てるのか?それは私が一度も理解できないことだ。なぜなら、人間の心にある二つの相反する傾向を見るほどに耐え難いことはないからだ。人類は、一方の極端にあるのと同じほどに、もう一方の極端においても堕落してしまう! 倹約なら悲惨を生み、放蕩は道徳的な破滅に堕してしまう。幸運なことに、これらの卑俗なる格言は、倹約と贅沢とに偽りの光の下に照らしている。それらは、直近の見える結果にのみを考慮に入れ、遠くに存在する見えないものを考慮していないからだ。この不完全な見方を修正してみよう。

 モンドールとアリストゥスの兄弟は、遺産分割をした後、年に5万フランの収入を得ることになった。モンドールは流行りのフィランソロピーを実践する。彼はいわゆる浪費家だ。一年に何度も家具を新調し、毎月馬車を買い換える。人々は、金をすばやく使うための彼の高貴なる計略について語り合う。つまり彼は、バルザックアレキサンダー・デュマの享楽生活を上回る。

 彼への賞賛は引きも切らない。「モンドールについて教えてくれ! モンドールよ、永遠に! 彼は労働者に恵みを与え、人々に祝福をもたらす。本当に、彼は贅沢にふけり、通行人にさえ金をまく。そして彼の尊厳と人類の品性は少しばかり低下する。しかしそれがどうした? 彼は、自身の労働によるかどうかは別にして、その財産で善を成している。金を循環させて、商人を常に満足させて帰らせている。金が丸く造られているのは回るためだと言うではないか?」

 アリストゥスは非常に異なった人生設計を採った。彼は、自己中心主義者でないにしても、少なくとも個人主義者ではある。なぜなら、彼は消費について熟慮し、穏当で適度な楽しみを求め、子どもの将来について考えた、つまり節約をするからだ。

 そして、人々は彼について何と言うか? 「あいつのような金持ちに何の意味がある? あいつはケチ野郎だ。確かに、やつの生活の単調さは見上げたものだし、人道的で博愛精神もある。だが、やつは計算高い。やつは収入全部を使ったりしない。家も豪華じゃないし、人も集っていない。内装職人や馬車職人、馬商人、菓子屋にどんな利益をもたらしていると言うのか?」

 こういった道徳的には致命的な意見は、贅沢に伴う出費という、目に入る一つの事実に基づいている。そして、それと同量あるいはそれ以上にもなる節約的な消費という、もう一つの事実は目に入らない。

 しかし、社会秩序の聖なる設計者によって、すべてが驚異的に見事に配置されている。他のこと同様、このことについても、社会経済と道徳性は対立するどころか完全に一致しており、
アリストゥスの知恵はモンドールの愚行よりも品位があるだけでなく、利益にもかなっているのだ。そして、私が利益にかなっていると言うとき、アリストゥスにとってだけ、あるいは社会全般に対してでさえもなく、労働者自身、つまりすべての産業にとっても利益があるのだ。

 この証明のためには、現実の目には見えない人間行動の隠された結果に対して目を向けさえすれば良い。

 なるほど、モンドールの贅沢はすべての点において目に見える効果を生み出している。誰でも、モンドールの折りたたみ幌のついた馬車、二頭立て四輪馬車、四輪箱馬車、天井画の繊細さ、豪奢な絨毯、豪邸の輝きを見ることができる。モンドールの馬が競馬場を走っていることを知っている。彼がオテル・ド・パリで開く晩餐は大通りの人々の耳目を集め、人々は「気前のいい男だ。収入を使うどころか、資産まで使っているに違いない。」これは、見えるものだ。

 労働者の利益という観点からは、アリストゥスの所得がどうなっているのかを見るのは容易ではない。しかし、注意深く行く先を考えてみれば、そのすべてが、最後にいたるまで、モンドールの財産と同じように労働者に雇用を与えていることがわかるのだ。唯一の違いは、モンドールの度外れた贅沢は次第に減少する運命にあり、必ず終わりを告げるが、アリストゥスの賢明なる消費は年々増加するということだ。

 もしそうなら、確実に公益は道徳と調和する。

 アリストゥスは自分と家計のために年2万フランを使う。もしこれで満足しないというのなら、彼は賢明な人間であると呼ばれるに値しないだろう。彼は貧者に降りかかる災難に同情し、その援助のために良心から1万フランを寄付する。彼には、商人や製造業者、農民にも一時的な困難を抱える友人がいる。その情況を知り、慎重に、そして効果的に援助するためにも、さらに1万フランを使う。最後に、彼は婚礼費用を用意すべき娘と、将来を期待される息子がいることを忘れない。そのため、年に1万フランを貯蓄に回す。

 よって、以下が彼の支出リストである。

1、自家消費 20000フラン
2、慈善活動 10000フラン
3、友人の援助 10000フラン
4、貯蓄 10000フラン

 これらの項目を見れば、最後のお金にいたるまで国民の産業に回っていることがわかるだろう。

 1、自家消費 人々の雇用や産業に関する限り、この出費はモンドールが使う分の額と完全に同じ効果を持つ。このことは自明なので、これ以上は語らない。

 2、慈善 この目的のための1万フランは産業に対して同額の利益をもたらす。肉屋、パン屋、仕立て屋、大工のもとに届くのである。違うのは、パン、肉、服はアリストゥスのためではなく、彼の代理となった人々によって使われることだ。そして、ある消費者が別の消費者に取って代わることは、一般的には取り引きに影響を与えない。アリストゥスが金を使うか、その代わりに別の不幸な人が使うようにするかは、まったく同一だ。

 3、友人の援助 アリストゥスが金を貸した、あるいは与えた友人は、地面に埋めるために金を受け取るわけではない。そうだとすれば、そもそもの仮定に反する。友人は商品を買うためか、借金を返済するために金を使う。前者の場合、取り引きが促進される。モンドールの買う1万フランのサラブレッドのほうが、アリストゥスまたは友人の買う1万フランの買い物よりも価値があるなどと言うものがいるだろうか?借金の返済に使われた場合、第三者、つまり貸付人が現れることになるが、その金は仕事か、家庭のためか、農場のためかに必ず使われることになる。彼はアリストゥスと労働者の間に入るだけだ。名目は変わっても、出費は同じであり、産業の振興も同じである。

 4、貯蓄 残りは貯蓄された1万フランである。この点においては、芸術や商業、雇用や労働の振興において、モンドールがアリストゥスよりも上回っているように見える。とはいえ、道徳的にはアリストゥスのほうがどれだけがモンドールよりも優れている。

 こういった自然法則の明らかな矛盾を見るとき、私は苦痛となるほどの精神的な居心地の悪さを感じる。もし人間が、その利益に反することと道徳に反することのどちらかを選ばなくてはならないとするのなら、その未来は絶望するしかない。幸運なことに、そうではない。アリストゥスがその道徳的な優越と同じように、経済的な優越を回復するには、外見上の矛盾にもかかわらず真理であり、心癒される原理を理解するだけでいい。つまり「貯蓄することは、消費すること」である。

 アリストゥスが1万フランを貯蓄する目的は何なのだろうか? 100スー金貨2千枚を庭に埋めるためだろうか? もちろん、違う。資産と所得を増やすためだ。その結果、その金は彼の個人的な楽しみを購入するために使われる代わりに、土地や家、国債の購入、起業活動のために使われるか、あるいは商人や銀行家の手に渡るのである。これらの場合の資金の行く先を追跡してみれば、売り手や貸し手という仲介人を通して、それらが雇用を促進することに納得できるだろう。それは間違いなく、モンドールの例に倣えば、あたかもアリストゥスがその金を家具や宝石、馬と交換したかのごとくにである。

 アリストゥスが1万フランで土地や証券をを買ったするとき、それは彼が金を使いたくないと考えたからだろう。これが、彼への不満となるのだ。

 しかし同時に、土地や証券を売った者は、その金を何らかの形で使いたいという考えから売ったのだ。だから、どのみちアリストゥスか、あるいはその代わりの誰かによってその金は使われることになる。

 労働者階級や雇用の促進については、アリストゥスとモンドールの行為には一つの違いがある。モンドールは自分で消費するため、その効果は目に見える。アリストゥスは部分的に仲介者を通じて消費するため、その効果は目に見えない。しかし、実際のところ、効果をその原因に正しく起因させることができるものにとっては、見えないものは見えるものと同じくらい確実なものとして認識される。このことは、両方の場合において、金は循環しているという事実によって証明される。浪費の場合と同じように、金は賢いものの鉄金庫の中にあるのではないのだ。よって、倹約が産業を害すると言うのは間違いだ。上述したように、それは贅沢と同じほどに有益なのである。

 しかし、もし現在についてのみ考えるのではなく、もっと長期について考えるなら、倹約はどれほど贅沢よりも優れているのだろうか。

 10年が経つ。モンドールとその財産、大変な人気はどうなるのだろうか? すべてを失い、彼は破産する。経済に対して毎年6万フランを使うどころか、彼は経済の負担となっている。どうであるにしても、彼はもはや店主たちを喜ばすことはない。もはや芸術や商業のパトロンでもなく、労働者に対しても、あるいは彼が貧困に導いたその子孫の役にも立たない。

 同じ10年が終わった後、アリストゥスはその取得を経済に還元し続けているだけでなく、その消費は毎年増え続けている。彼は資産を増大させ、つまり、その資産は賃金を提供する。その資金量に応じて労働需要が決まり、彼はますます労働者階級に多くの報酬を与える。彼が死ぬとすれば、彼の子どもたちが、こうした進歩と文明の仕組みを継承する。

 道徳的な見地からは、贅沢に比べた倹約の優越は議論の余地がない。ある現象の直近の効果にとどまらず、最終的な効果について考察するする能力を持つすべてのものにとって、政治経済の見地においてもそうであると考えるのは、心が癒されることである。