kurakenyaのつれづれ日記

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特殊な神聖性の否定

こんにちは

 

そういえば、グリーンは政治心理学者のハイトと論争をしています。「ハイトは保守主義者に対して譲歩をしすぎだ」というわけです。その一例としては、ハイトが「特殊な神聖性」に対する保守派の敬意を、基本的に肯定的に扱っていることがあります。

 

これはしかし、功利主義からは認められない。なぜなら、そういった固有の神聖というものは、相互に尊重しあえるような共通の基盤に立脚していないからです。そういった神聖性を認めると、人類共通の、最大公約数としての、最小限度の共通基準というものを見いだせなくなります。

 

で、ハイトの著作については以前も書いたと思うのですが、もう一度。

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

 

政治心理学者であるジョナサン・ハイトによると、保守派はリベラルに比べて「聖なるもの」に対する敬意を持っているといいます。実際に彼は因子分析をして、そうした要因が存在するし、大きな差が存在することも報告しています。これは例えば、たとえ演技であっても父親を打ったりするとか、あるいは教会(日本では神社になるか)を荒らすことなどになるでしょう。

 

似たような話はたくさんあります。例えば、近代科学的な、極端な合理主義を採用しましょう。死体という物体は、もう生きていないのだから、それを所有する人間(相続人になるだろう)は自由に処分してよいはずです。しかし実際には、死体損壊や死体遺棄など、死体を特別な保護対象とするのは一般的です。

 

実際 ボクにしても父の死体と遺品の時計が同じであるようには感じられません。と考えると、「聖なるもの」への敬意は、少なくともクロマニヨン人としての現代人の脳内回路に刻まれているのだと思われます。

 

キリスト教を信じていれば、キリシタンの踏み絵のようにキリスト像は神聖なるものだろうし、仏教徒でも、釈迦の像なんかがありがたいだと感じる人はいるでしょう。でも、それらは、人類に普遍的な神聖性ではありえない!  

 

なんでそんなに過去の聖人たちの教えが大事なのか? それに従うことに価値があると感じるのか? このこと自体に、もっと疑問を持つべきだと思います。とすると、この点においてボクはまったく保守ではなくて、リベラルの心性を持っているということなのでしょう。

 

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