昨日もまた八王子で無差別殺人事件が起きた。
中央大学の女性はほんとうに無念だったろうし、かわいそうである。
アキバ事件もそうだが、
こういうのはプレカリアートによっておこされることが多い。
リバタリアンとして、僕はこれをどう見るのか。
ヒヒのセロトニンレベルは上位個体では高いが、
低位個体では低く、反社会的・攻撃手・粗暴な行動が増える。
この事実は、イギリスではヒトでも追試されているから、
社会的によく処遇されていないと感じる個人が殺人などの暴力事件を起こすことは、
ヒトという社会性の動物の宿命というべきものなのだろう。
ここで、社会を矯正して平等を目指す社会制度を構築すべきなのか?
ある程度はそう言えるかもしれない。
僕のような、功利主義者にとって、これは
1、結果の平等な社会をつくって経済全体が沈滞する不利益と、
2、平等な社会をつくって低位の個人が殺人衝動を感じる頻度が下がる利益、
の利益の衡量によるべきだということになる。
もっと自由権を重視するリバタリアンは、
こういった利益の比較はもともと全く不必要であり、
不道徳であると考えるだろう。
あるいは、NHKの解説委員は必ずしたり顔で、
「こういった頻発する事件は社会的な問題として取り扱うべきだ」というが、
さて、そういう人は本当のところ、どうすればいいといっているのだろうか?
19世紀などに比べれば、殺人事件は世界的に大幅に減少している。
これはすべての先進国にはてはまっているから、
物質レベルの改善は少なくとも、これまでは殺人に対していい影響があったといえよう。
では、社会的な福祉の増大は犯罪を減らすのか?
例えばスウェーデンの殺人事件の発生率は10万人当たり2件程度で、
これは日本ではほぼ1件である。
東アジア人の犯罪率が一般にヨーロッパ人より低いことに鑑みて、
それほど大きな差はないようだ。
僕は政治家ではないので、回りくどい言い方、婉曲な嘘は嫌いだ。
なので、はっきり言うなら、
「自由放任経済は経済格差を広げ、どれだけか殺人事件を増やすだろう。
だが、それは自由そのもののコストであり、またより豊かな生活をする利益とトレードオフの関係にある」
と考える。
僕自身が子供を持つ身ではあり、犯罪の恐怖はたしかに感じているが、
それでも自由は尊重されるべきだと考える。
僕の意見は、特に変なもの、特殊なものではないだろう。
僕の幾人かの日本人の友人はアメリカに移住した。
殺人が10万人当たり10件も起きるアメリカでも、そこへ移住する日本人が年間数万人もいるのだ。
残念ながら日本に移民するアメリカ人はジェロを含めて、その10分の1程度だろう。