安部首相であれ、どんな政治家であれ、
赤ちゃんを養子に出すポストは反対するだろうと思う。
それが道徳的に正しいからでもあるが、
むしろそれ以外の発言はそういう行為を肯定するように聞こえるからだ。
これは、人間の発言行動をスペンスのシグナリング・ゲーム理論的に考えると、
ポストの否定以外の発言はすべて赤ん坊をポストに入れることを
「道徳的に」肯定するように聞こえるためだろう。
これは先日エリック・ポズナーの著作を読んで、納得した論点である。
僕は長い間、このような政治活動の偽善について考え込んできた。
この例では、赤ちゃんは幸福になる可能性が上がると合理的には考えられるのに、
人びとはなぜ反対意見を表明するのか?
倫理観というものの生物学的な意義についての疑問であるといっていい。
ポズナーはスペンスにしたがって、これを発言ゲームだと考える。
すると、なるほど、PCではない表現はすべて、
それを自由主義や功利主義の立場から許容しているというよりは、
むしろ薦めているように聞こえてくるという実感がある。
小生は小さいときからこのような偽善を嫌うために、
これまで多くの不適切な発言をしてきたのだろう、ということがよくわかった。
小生の基準ではいい大人が偽善的発言をまじめにするというのは、
本人の知性が著しく乏しいことを意味しているのではないかと邪推してきたが、
そうではなくて、やはりこれは人間の倫理感を感じる脳moduleの構造のせいなのだ。
おそらく人間の心理とはそのようにできているのだろう。
これをヒキガエルの求愛のようにプログラムされた機構とみなすか、
むしろ合理的な活動だとみなすかは難しいが、、、、
しかし、ポズナーの著作によって小生はついにこのなぞを理解できた。
自分で考え付くことが出来なかったのは特に残念だが、
ポズナーという知性には本当に感謝したい。