kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

私的懲罰はtoo much or too little?

きょう、Fehr and Gachter のNature (けちなネイチャーはみんなに読ませてくれないが)
の有名な論文について考えていて、ちょっと思ったことがあった。

以下テクニカルなので、進化ゲーム理論に興味のない人は読まないでください。


一般に、単発の囚人のジレンマタイプの公共財ゲーム実験では、非協力戦略が支配戦略になるが、これを繰り返しゲームにすると協力が支配的になる。繰り返さなくても、裏切りに対してペナルティを与えることが事後に可能なら、多くの個人が自己の利益を犠牲にしても、裏切り行為を罰することが確かめられてきた。

では、なぜ、ペナルティを与えるという、自分に利益にならない、一見利他的なな行動が進化してきたのか?


よく知られているように、公共心に溢れる人は、他のプレイヤーからの信頼を勝ち得て、その後により多くの協力を得ることになる。これが、懲罰心の進化である。つまり、自分の信頼性をシグナルするためには、利己的な個体にペナルティを与えることが有益になるという、シグナリング・モデルなのだ。


シグナリング理論は (経済学者ならスペンス、生物学者ならザハヴィを理論家として挙げるわりに、その内容は同じ) つまりは「何らかの有意味なシグナルを発するためには、それに応じた何らかの真のコストを支払う必要がある」いうものだ。でなくては、シグナルの信頼性が担保されないからだ。


これだけを見れば、人間心理のプラス面を記述している。なんといっても、ルール違反者への懲罰は、公共財そのものだと考えられてきたもので、実際、個人における遵法意識の醸成にはかかせないだろう。


とはいえ、同時に、宗教対立が戦争につながるように、仲間からの評価を得るためには、他のグループを攻撃するというシグナリング行動もあり得る。実際、この不寛容な心は、歴史的に多くの宗教戦争などの悲劇を生み出してきた原因だ。


僕が面白いと思うのは、無政府社会でのprivate penalty を語る時、タイラー・コーエンは、公的な警察なしでは懲罰は十分には機能しないだろう、と言う。反対に、エリック・ポズナーは、かつてのシャリヴァリ(見せしめの制裁やリンチ)などの行き過ぎた私的制裁活動を抑えて、自由を確保するためには、公的な警察が必要だったという。果たして、公的な警察がなければ、私的な懲罰は現代を反映して弱くなりすぎるのか、あるいは中世のように過激になりすぎるのか??



さて、公共心それ自体は、結構なものでFehr なんかはその功績で近いうちにノーベル賞が確実視されている。しかし、他のグループへの攻撃は結構なものではまったくない。 この2つの心理がまったく同じ認知機構や神経回路を使っているのかは、とても興味深い。