kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

フェルマの最終定理

こんにちは。

 

1993年にワイルズフェルマの最終定理を証明したという話は、ボクがサンディエゴの大学院にいたときに伝わってきた。経済学部ではあったが、多くのアメリカ人のクラスメートは数学や物理を学部時代にMajorにしていた。それもあって、大学院の一年目では気の合うドイツ人の友人に誘われて、絶対に経済学では使わないだろう複素解析と超準解析のコースを勉強してみた。そういう数学的な経済学がサンディエゴ校の校風だった。

 

(ちなみに、超準解析は、無限小という概念を導入する特殊数学だ。これによって、ある種のゲーム理論に解を与えることができるので、使われる論文もJournal of Mathematical Economicsなどには稀には載っていたように記憶している。)

 

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

 

もちろん、数論は経済学ともっとも関係がないので、「へーえ、ついにフェルマの定理も溶けたのかぁ」ぐらいにしか感じなかったが、それでもスゴい業績であることはよくわかっていたつもりだ。

 

この本は、谷山・志村・ウェイユの予想、その他にも多くのメジャーな数学者との関わりもよく描かれていて、とてもおもしろい本だった。これまで良い本だという話を聞いていたのに読まなかったのが、本当にもったいなかった。とはいえ、同じ内容でBBCの番組もYoutubeに乗っているので、本を読むよりも映像を見たほうがわかりやすいかも。

 


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どっちでも良いが、おヒマな時間にどうぞ。 楽しめること請け合いだ。

 

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恐竜と鳥類

こんにちは。

 

一昨日、昨日と読んだのは、これ。

 

鳥類学者 無謀にも恐竜を語る (新潮文庫)

 

この人の本が売れているのは、どこかで読んで知っていたので、図書館で見つけたついでに借りてきて読んでみたら、めちゃめちゃに面白かった。鳥類は恐竜から進化したことが知られているが、その専門家から見た恐竜学全般に対するエッセイ。学問の違いからの比較という視点があって、恐竜ばっかりやっている人、つまり骨を掘り出したり、分析したりばかりではわからない話題が、とても新鮮だった。

 

例えば、鳥の個体の色の使い方は、活動域や捕食圧、さらには性選択などによるので、恐竜でも真っ白なやつや、真っ赤なやつがいても良いんじゃないのか?というのは、なるほど。

 

ボクが勉強不足だったというのもあるが、鳥類が本格的に繁栄し始めたのが白亜紀だったことも知った(のか、ただ忘れていたのか??)。なんとなく中生代のどっか、としか覚えていなかった。。。

 

あと、形態に関しても、「鳥は歯を持っていないのは、むしろ歯のある恐竜から進化して、ピンセットのようにつまむためのクチバシのほうが、営巣や軽量化に都合が良かったからだ」というのも、完全に納得。

 

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こうしたマトモな考察も素晴らしいのだが、それよりも、なんと言っても本書の魅力は、筆者の洒脱な文章にある。日本人のオジサン世代の常識を散りばめた冗談の使い方が、見事で素晴らしい。(ボクもこういう文章を書いてみたいと常に感じてきたのだが、、、、)

 

とにかく、楽しい本なので、一読をおススメします。ボクも川上さんの他のエッセイも読んでみるつもりです。

 

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龍が如く

こんにちは。

 

息子がやたらとケータイと動画ばっかり見ているのだが、ある日「龍が如くのムービーは面白いよ」と言って来た。いつもガジェット系サイトを読んでいたので、「龍が如く」というヤクザゲームが大人気なのは知っていたので、これを機会にムービー部分を見てみた。

 

すでに第一部の主人公である、桐生一馬のものだけで6部が完結していたので、とりあえずみてみた。

 


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大学時代に、開成高校出身の単なる関東人の友人が、「じゃけん、おのれは広島の親父にぶちまされたいんか?」みたいな(間違ってたらスイマセン)、広島弁を「仁義なき戦い」の影響で使っていたのを思い出した。

 

龍が如くを見てみたら、なるほど極道の世界の中でも普通の人でも共感できる部分を描いた傑作だった。「仁義」「任侠」というものの最も良い部分を体現する桐生一馬は、たしかに魅力的なキャラだ。(もちろん、現実のヤクザというのは、もっと様々な非道徳的な活動をしているだろうが、、、)

 

それにしても、「親は絶対」「兄弟の盃を交わしたものは、命をかけても守る」というのは、どういった集団=軍隊にも絶対に不可欠な要素だろう。戦国時代なら、そうした状況論理はすべての戦国武士に当てはまったのだろうと思う。結局、ゼロサムゲームと殺し合いが当然の世界では、そうした論理以外には成立しない。

 

戦争が常態化したゼロサム社会では、男はすべてヤクザにならざるを得ないし、それが唯一の論理だ。その反対に、(近代以降の)この世界には科学や技術の発展が存在して、それによる分業と交易が我々を豊かにできるというのはスバラシイ。

 

それがなければ、男はすべて殺し合うしかない。近代科学を推し進めることができなくなった世界が(近い将来に)来るのなら、それは中世への逆戻りを意味するのだろう。。。 それはつまり集団的なゼロサムの世界、、、、、

 

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来年からは何をする?

こんにちは。

 

このところ、いろいろとあってブログ更新を忘れていました、スイマセン。

 

さて、僕の私的な話なのだが、今年度いっぱいで職場を離れることを決意した。高校大学時代からずっと あーだこーだと考えて議論してきたのが自分という人間のすべてなのだ。なんだかんだと言っても、結局は常に大学という組織の一員になること、そしてそうであることを前提にしてきた人生だった。大学の所属を離れるというのは、とてもフシギな感じがするし、えも言えず感慨深い。

 

 

多くのサラリーマンも退職時にこうした感慨を抱くのだろうな。

 

で、これから何すんの?  というマトモな問いには今は答えがない。多分、ダラダラと老後を親と過ごすだけになるのだろうが、Youtubeにも何らかの投稿をしてみたい。

 

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話題が変わるが、ちょっとした理由から自分が15年以上前に取り組んでいた、無政府主義と「法の経済分析」の本を読み返してみた。

 

無政府社会と法の進化―アナルコキャピタリズムの是非

 

で、びっくりしたのが、薄い本なのにやたらと細かい日本国の法律の仔細や、あるいは判例にまでグダグダと論考・言及している点。よほど、この時は法律について勉強し直したんだろうということを、他人事のように思い出した。若いというのは、何でもエネルギーがあるもんだ!

 

例えば、「公法と私法がなぜ分かれているのか?」という問いに、法学者で答えた人はいないと思うが、そうした根源的な法のあり方についても、D. Friedmanの功利主義(+進化心理学)の視点から説明している。とはいえ、論理的には、(近代啓蒙主義以降の)純粋な功利主義と、進化心理学によって帰結される心理的(カント的・単純道徳的な)直感の間には乖離が生じ得るので、この点については、これからさらにもう少し考えてみても面白いかもしれない。

 

 

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さてさて、例えばボクは「Food for Thought」というチャンネルを考えていて、そこでは、これまでの学術的、あるいは政治的に正しい常識を疑う内容を話してみたいと考えている。あるいは、(もう少しは多くの読者が期待しているようにも思うが、)「Libertarian.jp」とかいうサイトをつくって、時事的な政府の愚策についてリバタリアニズムの視点から論評するというのも面白いかもしれない。

 

 

今年で学会と大学をやめてしまうというのは、ボクにとっては大事件ではある。それでも何かの交友関係や人間としての人生が必要だろうとは理解している。そこで、YouTubeで動画を作って「目指せ、100人subscriber!」ということなんかを、人生の末節・老後の目標にしてみようかと思っている。

 

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科学史雑感2

こんにちは。

 

続き。

 

天文学とは違っているが、しかし西洋社会(ボクの定義では中東を含む)でほとんど同じように扱われてきたものに占星術がある。Astrology and Astronomy ということで、天体に関係しているのは同語源だ。

 

これは中国の、天の変化は地上の変化と関係しているという信仰と同じものだ。

 

今 占星術に相当するのは、中国の医学である鍼と灸、インドのアーユルヴェーダ。特に鍼灸はとくに西洋人にも、大きな人気がある。もちろん、Cochran などのマトモなメタ分析では、プラシーボ以上の効果は報告されていない。

 

プラトンイデアと同じように、こうしたものはヒトの心に刺さるのだろう。それはそれで仕方がない。同じ話だが、株式、あるいはコインの各種投資法、あるいは投資分析も(ひじょうに短い時間では意味があるかもしれないが)、全体として完全に無意味だ。気が向いたら「効率市場仮設」についての、説明を読んでください。

 


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もちろん、ボクはこの人個人を否定したいのではないですよ。単に、科学としての市場予測はできないと言っているだけ。

 

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さてワクチン否定論を読むと、そうした直感が今もあることがわかる。データを信じるべきだという理性はあっても、得られたデータが改ざんされているという陰謀論は否定できない。

 

Samuelson以来のrevealed preferenceでは、なにかを信じるかどうかは行動によってのみ示される。ボクはワクチンを摂取したので、リスクよりはメリットが大きいと判断したと言えるだろう。

 

みなさんも考えてみてください。

 

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科学史雑感

こんにちは。

 

自然界の法則のあり方(の予測)に、宗教的・常識的な「人間的な解釈」を持ち込むのは、当然なのだろう。

 

例えば、プラトンは正x面体が5つしか存在しない(正四面体、正12面体など)を知っていて、それが元素となると考えた。こうした、ある種の数秘術的な世界観はそのまま西洋科学に受け継がれた。1600年代に入ったケプラーも、惑星の配列がそうした秩序を持っていたと推測している。

 

同じような話で、ピタゴラス学派は音階的な調和が、自然界にもあまねく存在すると信じていた。

 

少なくてもキリスト教の発想は、地球と人間は世界の中心にあるという「直感」をもっていたのだろう。

 

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というのは、科学史の話。

 

ボクが育った日本の1970年代には、そうした形而上学的なインスピレーションを与えるものはまったくなかった。当然、日本は先の戦争に負けたし、西洋人の科学は圧倒的だったという認識からスタートしている。とはいえ、西洋人のキリスト教的な神(絶対人格、創造主)が真理であるはずはないという直感はあったし、ニヒリスティックだが、人間の絶対性なども進化論(あるいはサルとヒトの明らかな類似性)からありそうもないと感じていた。

 

つまり 寄る辺のない相対主義、、、

 

しかし、それでもプラグマティックには、1つ言えることがある。それは原爆から、あるいは月面着陸などの絶対的な科学の達成事実だ。(これを否定する人は、ウーン、もう統失とでも呼ぶべきなんだろう。)

 

といことで、西洋哲学で「本質主義」とか呼ばれるものは、アジア人のボクにははっきりしなかったが、それでも審美性とプラグマティズムが複合したもの、物理学、科学、進化論、確率論、などなどはとても否定できそうにない。

 

ということで、科学史の雑感でスイマセン。

 

繰り返すが、それにしても林羅山のような、まさに典型的なバカが江戸時代の学会を牛耳っていたことは実に残念だし、まさに日本人の知的な弱さそのもの。すでに1600年の時点で、スペイン人は大量の日本人奴隷を、太平洋経由でアメリカ大陸に送っていたのに、、、 なんで地球球体説を、中国の(クソ古典の引用で)否定できるのか?

 

jukenrinri.seesaa.net

 

政治的、あるいは(常識)倫理的な権威を超えた「論理」や「実証」がありえることを否定するというのは、、、 「論破王」ひろゆきの存在にも似て、悲しくなるなあ。。。

 

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Dr. Steven Weinberg R.I.P.

こんにちは。

 

さらにさらに続き。

 

先週だったか? にテキサス大学オースティン校の著名な物理学者 スティーブン・ワインバーグが死んだというニュースを聞いたので、もう一度、彼の科学史への評価を著した『科学の発見』を読んでいた。ワインバーグは物理学標準理論の提唱者。

 

この本は、読んでいて楽しいし、科学史家たちにたいするアンチテーゼとしての大きな価値がある。言うまでもなく、社会的構築主義に近づく科学哲学者なんかよりも、はるかにすばらしい。

 

科学の発見 (文春e-book)

 

ワインバーグは、現在の科学の視点から過去の科学者の活動を評価する。こうした行為自体が、戦後の文化相対主義のなかで否定されてきているのだが、それはただ単なるアタマの弱さでしかない。

 

科学は絶対だ。(少なくともstringなどのように、何の実証的な証拠もない理論を除けば)。どうして相対性理論に基づくGPSや、あるいは日本人を大量に殺した原爆、相対性理論を否定できるのか? そんなことを考える人間自体が(フランスのバカ哲学者たち)単なる頭の弱さなのだ。それになびく日本の文化人なんかはとんでもない ただのバカ!! 

 

もちろん、ボクは酔っ払っているが、言っていることには知的な問題はない。35年前のボク自身が興味を持っていたこと、科学・社会・哲学に興味のある大学生には、100%でマトモに受け止めてもらいたい。

 

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