kurakenyaのつれづれ日記

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中産階級の死(2)

 

そういえば、20年ほど前に、ある同僚と話をした。

 

彼はプロ・スケーターになれるかどうか、というところでスケートを止めたという。結局、彼は大学院に進んで、大学教員になった。プロのアスリートというのは芸能人やミュージシャンと同じで、売れると立地に生きれるのだが、実績が劣れば生活ができない。技術的にはほとんど変わらなくても、報酬的に見ると中間の所得を得られることが稀であり、格差がとんでもなく大きいのだ。スポーツ選手や音楽、芸術というのは、一番うまい人だけが皆から注目を浴びて、それ以外の人は趣味としてはともかく、報酬を得ることができない。

 

最近、別の同僚と話していて、同じ話になった。彼の息子がバスケットボールの県内最優秀選手に選ばれたが、Bリーガーとしてプロを目指すか、普通に勉強を続けるかが悩ましいところだという。

 

さて、世の中の人が学校の成績や大学進学を気にするのは、その結果としてのホワイトカラーの仕事が、所得レベルで最も安定しているからだろう。事務仕事だけが、連続的な所得を報酬として与えてくれてくれる。このことを多くの人がわかっていて、“安全な”仕事としての会社員=事務仕事=学校の勉強の延長、というものだけを特別視しているのだ。

 

サラリーマンは似たような業務を遂行して同じような給料を得ると考えられてきたが、それが続くかはわからない。AIが個人の能力を拡大し続ければ、今後はホワイトカラーの仕事でも、ミュージシャンや芸能人、youtuberと同じように、所得の格差は一方的に広がっていく可能性がある。

 

アップルでiOSの動作効率を0.01%でも向上させるプログラマーがいれば、その価値=報酬は常識的なサラリーマンの給与とはまったく違う次元になる。プログラムの設計思想、グランドデザインを行う人の重要性と報酬は、その何十倍にもなるだろう。

 

これはプログラムのようなIT系の話だけではない。アメリカでは製造業でさえも、ロボットが活躍するようになった。それに応じてプログラマーやエンジニアだけが必要になってきたという。つまりブルーカラー的な単純労働が、各種のAIとロボットによって代替されているわけだ。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

もちろん、これは何万人もが所属する巨大な組織のリーダーでも同じはずだ。利益の上がらない事業から撤退して、組織を新たな方向性に導くなら、その価値は平均的な従業員の給与の何倍という程度であるはずがない。(なお、これまで日本のサラリーマン社長の給与が低かったのは、社員全体が共有する保険契約の一環として、出世してもしなくてもあまり変わらない給与で行きましょう、という暗黙のルールimplicit contractがあったのだと理解される。)

 

www.nikkei.com

 

 

中産階級の消滅というのは、テクノロジーによって個人の能力格差が拡大しているのと、それに応じて、日本人も、かつてのような暗黙の保険としての労働契約では納得しなくなったことによるのだと思う。人は世に連れ、世は人に連れ ということか。

 

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中産階級の死

こんにちは。

 

大学時代からクルマが好きだったが、昔はもっと国産車の中型のクルマ、例えばコロナやブルーバード、アコードやカムリなんかが売れていたし、話題にもなっていた。

 

今や 田舎で必需品としては軽自動車が売上台数としては40%を占めていて、その反対にメルセデスBMWもやたらと増えている。

 

これはセダンというジャンルで一番はっきりとしている。セダンというのは、4人が乗れるし、そこそこスポーティで、伝統的・保守的というスタイルだ。

 

日本車は全滅状態で、メルセデスBMWアウディしか見かけなくなった。おそらくセダンという顕示的な消費財としては、ドイツ車でなくては意味がなくなってしまったのだろう。スーツが高級化するのと同じだ。

 

反面、ビープルムーバーとしてのミニバンは日本車が圧倒的だから、移動のツールとしては支持されているのだ。この点は、ユニクロ、ワークマンの機能性が庶民から支持されているのと相似形というべきか。

 

所得格差が増加して、次第に誰もが同じである必要もなくなり、それぞれに資源や興味の異なる状況に応じて、クルマを買わなくなったり、違ったクルマを買うようになったということ。これは日本で言う「中流」、英語で言う中産階級 middle classが消滅しつつあるということなのだろう。

 

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楽天は見にくいぞ!

こんにちは。

 

楽天というサイトは検索エンジンが使えないのと、サイトのデザインがグチャグチャしていて商品が見にくいので、できるだけ使わないようにしている。

 

news.yahoo.co.jp

 

で、送料無料は消費者としては結構なのだが、加盟店との軋轢が生じているのは既報の通り。こうした状況はセブンの加盟店いじめの話と同じ、あるいは夫婦関係と同じだ。どちらが良いわけでも、悪いわけでもないのだろうが、長年の間には大きな利益の衝突が生じてしまう。

 

さて今や第二のユニクロとでも呼ぶべきワークマンが楽天をやめるというのは、とても興味深い。というか、そもそもワークマンが楽天にあったのも知らなかった! ワークマンほどの知名度がないと、楽天って やめられないものなのだろうか??

 

加盟店にとって、どうして楽天というサイトがそんなにありがたいのか? 単なる素人の僕の感覚では、特定の商品(例えば特定のスニーカの種類など)をグーグル検索をしても、実際にはショッピングサイトが出てくることが多い。ホントに楽天に加盟していることが売上維持にそんなに不可欠なのか、不思議に感じるのだが、、、

 

多分、加盟店にしてみれば、経理ファイナンスなんかも一括してやってくれることが良いのだろうけど、、、 freee なんかの経理サイトもあるし、Qoo10やAmazonみたいな他の通販モール・サイトじゃ代わりはできないんだろうか?

 

とにかく楽天は商品が見にくい! とっとと個別の製造者、小売には独立してもらいたい。

 

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ブルシット・ジョブ

こんにちは。

 

最近 流行りの言葉はブルシット・ジョブ、bullshit job。まあ「クソ仕事」とでも訳されるほどの、無意味でどうでも良くて、くだらない仕事。

 

Bullshit Jobs: A Theory (English Edition)

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  • 作者:David Graeber
  • 出版社/メーカー: Simon & Schuster
  • 発売日: 2018/05/15
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では今世紀に入ってブルシット・ジョブが急増しているのは、なぜか??

 

官僚主義の跋扈というのが、もっとも普通な説明だ。リバタリアンとしては、当然のことだが、その通りだと思っている。

 

 

 

大学に努めて26年になるが、クソ仕事はまさに急増してきた。実感としては、全労働時間の10%から、次第に50%ほどになってきたという感じ。すべての授業の出席確認、八股文的様式美を追求する完璧なるシラバスの作成、どうでも良い研究をするための科研費の申請、誰も見ない文科省外郭団体への大学紹介プロフィールや研究履歴書の作成、誰も読まない授業評価アンケートの実施と感想文の提出、担当学生一人ひとりの長所の作成や提出、避難訓練公開講座、高大連携授業の担当などなど、文科省の推し進める大学改革から生じるクソ仕事にはキリがない。

 

厚生省の強制する精神衛生アンケートなども煩わしくて、記入することでウツになりそうだ。なんでもやろうとするのは良いけど、とにかく強制するのは止めてくれよ。

 

余談だが、センター入試の監督者要項が200ページ以上あることは、この業界では当然。だが、それを年中考えている役人以外のすべての監督者にとって、そこまで細かな条項が書かれていても読めるはずも、理解することも、実行することもできるはずがない。こんなマニュアルの作成・配布・準拠、これこそクソ仕事!

 

 

だが、おそらくこうした事態は、ほとんど大企業でも起こっているはず。社会が求めるものが多様で、かつ高度化しているから、LGBT対策の勉強会から、法務担当によるSNSの使い方の注意などのどうでも良い勉強会がやたらと多くなっているはずだ。

 

 

結局なんと言うか、人から、世間からの批判・非難を避けるためには、どの組織でも官僚的なアリバイ作りの書類仕事は増えてゆかざるをえない。これこそがまさに世界の生産性を低下させているのだから、可及的速やかにAIに書いてもらいたい。

限界費用が下がっても

こんにちは。

 

歳を取ることの良い点は、これまでの人生が長いので、おおよその主張には過去に出会って免疫があること。同じですが、悪い点も、出会ったアイデアが多いので、驚きや興奮を感じなくなってしまうこと。

 

僕が大学生の時代には、もうトフラーが「第三の波」などの著作を著していて、これはいわゆる未来学だったし、あるいはポスト資本主義だったわけです。そのときは面白かったのですが、今同じ本を読んでも(当然ですが)新味はありません。

 

限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭

 

 

さて限界費用が低減して、食べ物もクルマも家も安く作れるようになるというのは間違いありません。ユニクロの衣服はもう十分であり、それを越えるワークマンの防寒能力は、ほどんどの人にとっては不必要な気がします。

 

で、ファンションやハイブランドはなくなったのでしょうか?? 

 

いやいや、いまでもファッション雑誌は普通に存在してますよ。ますます空港でも銀座でもハイブランドは頻繁に見かけるようになり、LVMHのアルノー会長は世界一の富豪として有名になっています。

 

 

人間は競争が好きなので、あるいは(残念な気もしますが)競争するように生まれながらにプログラムされているので、「より良い」衣服、クルマ、家などを求めることはなくならないだろうと思います。学者や思想家以外で、「もういらない」と言っている人はいないのでは?

 

家の建築費用が下がったとしても、誰でもが会社から10分の場所に住めるようにはならないでしょう。物質が有り余る社会では、ステータス財・顕示的消費財の価値が上がることになって、今と同じように、人々はそうした財 (e.g. 六本木ヒルズに住んで、ランボルギーニに乗ること)のために高い収入を求めるでしょう。

 

もともと庶民にとっては老後の2000万円が心配なのであり、それは「人並み」の生活への欲求であり、抽象的なカロリー摂取に必要な金額などではありません。多分現代人の生活の快適さは、中世のどの王様とも比べられないレベルですが、人々は相変わらず競争し続けています。

 

よく言われているように、「低収入の男子は結婚していない傾向があるが、それは子育てにお金がかかるから」です。が、そうした主張をしている人の書いたものをよく読んでみて下さい。典型的な「子育てに必要なお金」には、英語やスイミングなどの習い事、塾の学費、私立大学の学費など、他人からのサービスを受ける費用が含まれていて、単純な消費財はそれほど重要ではありません。こうした場合、人件費を主体とするサービスを購入するには常に人並みの収入が必要になるので、結局は人より高い収入を求めることになるのではないでしょうか。

 

結局、ボクの結論は、「確かにこれからも消費財の価格は相対的に低下し続けるが、それはポスト資本主義とは関係がない」というものです。すでに国際価格では、100円で必要摂取カロリーは満たす穀物は買えます。hard offで古着を買って、都心から2時間の郊外で築50年のアパートや空き家に住めば、それほどの現金収入はなくても「ただ生きる」ことはできるでしょう。それで良いと思うかどうかは、その人次第ですが。

 

現在の資本主義経済が格差を拡大するようになっているのは事実ですが、それは革命にはつながっても、その後も、単に別の(おそらくはるかに抑圧的な)政治形態下での資本主義が継続することは疑いないでしょう。

 

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アルコール課税

こんにちは。

 

なぜ特定の消費財であるアルコール飲料に酒税が課せられるのかといえば、単に税を取りやすいから、というほどの理由でしょう。担税力とか言われてますね。

 

アルコールが身体に悪いので、その消費は抑制されるべきという、公衆衛生的な理由から課税されているのなら、アルコールの含有量に応じて課税されるべきなのです。実査には、税は政治そのものなので、そこには歴史的な経緯というのはあっても、実践やその論理には何の一貫性もありません。

 

アルコール摂取する際に直飲みできるなかで一番安いのがストロング系チューハイなので、みなさん飲んでいるというわけです。

 

 

 

あまり関係ないのですが、これにちょっとばかり似ているのが、F1などのレースカテゴリーでの、エンジン・レギュレーションのあり方です。昔から、やれ排気量はどれだけ、燃料流量は時間あたりどれだけ、ターボによる過給圧はどれだけ、回生された電気エネルギーは時間あたりどれだけ、などなどの規定が細かすぎる!!

 

究極的なレギュレーションは、燃料の消費量だけであるのが合理的です。例えば、おそらく今の技術なら、50リットルとかの標準的なガソリンしか許さないというもの。(これまでは300キロ走るために、100リットルほどの特殊燃料が許されています。)

 

こうしたレギュレーションが採用されれば、すべての技術革新が燃費とパワーの両立を目指すはずです。結局は市販車のCO2問題の解決にもつながる意義の高いものなのに、なぜかまともに取り扱われることはありません。

 

まあ理想主義というのは夢想主義でもありますが、それにしても税の取り方にさえも何の方向性もないというのは残念なことです。

 

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統覚の超越論的存在論w

こんにちは。

 

このところ、ちょっとした用事があって、久しぶりにいくつか哲学的・思弁的な著作を手にとってみた。まずはベストセラーの「なぜ世界は存在しないのか」

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

 

 

この本でガブリエルは「統覚の超越論的存在論」という言葉が、必要以上に「難解な哲学」に典型的な題名だとしている、、、笑える。たしかホフスタッターだったかが、「題名だけで、内容の有意味性を測ることができれば面白い」的なことを書いていたと思う。まったく僕もそう感じて来たのだが、

 

さて内容はなかなか興味深いものだった。極端に単純化すれば

 

「近代的な科学や、思索で仮定されるような、斉一的な全体としての“世界”というものは存在し得ない。観念できるような“全体”が存在するとするなら、それを観念する主体はその外側にいるのであるから、その全体には含まれないからだ。するとその観念主体は全体の一部ではありえないのだから、メタ全体を考える必要があることになるからだ」

 

というような、フレーゲ的というかゲーデル的・論理的なテーゼというかである。

 

これは面白い考えだと思ったし、感心したが、そのように考えることから得られるインスピレーションがあるのか? という部分はよくわからなかった。おそらくは彼が主張するように、斉一的全体が存在せず、“意味の場”というものを多元化することで、「科学的な世界観から生じるニヒリズム、あるいは人間存在の空虚感」というものを否定してくれることなのだろう。

 

ガブリエルが天才哲学者なのかどうかはわからないが、使う言葉はやたらと難しいのに、共通の意味を了解し難い観念論哲学よりは、はるかに楽しい。おススメです。

 

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