労働価値説の話2
こんにちは。
昨日のポストは、「価値についての効用価値説は正しいが、その主観価値のなかには一部、周囲の人間の感じる価値が入り込んでいる」という話だった。これをもう少し書いてみよう。
自分があるモノに感じる価値がハッキリしない場合、周囲の人間の言うことから影響を受けてしまう。いや自分ではハッキリしていると感じている場合でさえも、実はそれは単に常識を学習して信じ込んでいるだけのことがあるということ。
その極限は「通貨」である。おカネは別の人々が価値物だと信じていることを自分が信じているから受け取るのだ。いわば価値の100%が「自分の周囲の人間の認識」に依存している。これは、ある特定個人の主観的な価値観から見ると、100%の客観価値(この言葉の使い方はおかしいのだが)であると言える。
多分90%以上が客観価値であるものは、宝飾品などだろう。金が銀よりも? という話を昨日は書いたが、今日またYoutubeを見ていたら、オパールなどの宝石を河原で拾たり、ガーネットを掘り出したりするYoutuberがいることがわかった。
さてガーネットやルビー、サファイアはダイヤよりもはるかに安価で価値が低いとされているが、子どもであれば多分に色味は無職のダイヤよりも美しいと感じられるのではないのか? サファイヤブルーやエメラルドグリーンのほうがアピールするんでは??
子どもが小さいときに少女漫画の裏病死にあるサン宝石の広告では、無色のガラスよりも色ガラスのほうが好まれていそうだが、、、
僕はこの問いに答えることができないのだが、人工ダイヤが急速に普及しつつある現在、近い内にあるいは本当にそうなるかもしれない。もちろん、すべての宝石が人工的に自由に作られるようになれば、やっぱり金属だけが価値物になるのかもしれないし、その辺もまったくわからない。
古代から権力者は壮大な建築物を建ててきた。ピラミッドや中国の皇帝の居城などの大きさは技術の高さだけでなく、要するに「どれだけの人を動員したか?」ということが一目瞭然であるからこそ、偉大な建築物だったことは間違いない。 とすると、人間の労働を化体させているモノが一見して価値のある装飾物になる。 極限的な微細な芸術品もつねに技術だけでなく、「職人たちがそれを生み出すための時間が莫大であること」が明白である。ペルシャ絨毯や絢爛豪華な織物などには、そのモノ自体が労働時間を直感させる。
さて、こうした労働時間も、最終的・究極的にはなんらかの直接的な効用に還元されるのではないか? という疑問も湧く。考えてみると、そうした労働時間が生み出すように思われる価値は、究極的には「おいしい」「栄養価がたかい」「うつくしい」などといった生物的な価値に帰着できそうでもある。(美しいことも、そうした論争のフラクタル的な一部である。)
この問いは、クジャクのセックスアピールを巡る議論と同じだ。 なぜ、直接的な効用を生み出さないような特性が「望ましい」「好ましい」と感じられるのか? なぜそうした神経回路が進化的に系統発生において発達してきたのか? ちなみにそうした神経回路の錯視を利用しているように思われるダンスは多くの鳥類の求愛行動に見られるし、ジャニーズのダンスだってまったく同じものだろう。
こうした問いに対する数理モデルもあるが、要するにブーツトラップ・モデルになるので、「そもそもの人間集団の共通認識が存在する程度で、個人の効用には還元できない部分が残る」というものになる。
主張したいような強い結論などは特にないのだが、あえていうなら「主観効用価値説は大まかに正しいが、説明力の高くない財などもそれなりに存在する」という凡庸なもの。こうしたアノマリーとしての財・サービスの理解は、多分経済学(という金儲けについての学問)を好まない社会学の交換理論、あるいはマルクスの交換理論など、さらには貨幣理論などにも「あーだこーだ」と議論されてはきているが、そうした議論・説明は気が向いた程度で読んで楽しめばよいだけ。
繰り返すと、僕は主観効用価値説が「誤っている」というようなバカらしい主張をしたいのではなくて、「そうではない事例も散見される」といっているのである。まあ、極限状況を想定して議論をするのが好きな、悪い意味での哲学的な議論なのだ。大体の哲学者はそういった「考えるための教材」が大好きで、無意味な思索にはげんできた。考えるのを楽しむのはさておき、だからこそ計量という概念が必要になる。計量化によってのみ、何が普通で、何がどの程度のアノマリーなのかが理解できるのだから。
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